第2話


         ※


 同時刻、日本海溝房総沖。

 海上自衛隊の最新鋭イージス艦『しなの』の艦橋では、自衛隊員たちが慌ただしく動き回っていた。

 理由は二つ。海斗たちの乗った潜水艇が未だかつてない深海に到達したから。それと、その潜水艇が出発した直後、半径二百キロメートルにわたって通信障害が生じたことだ。


 通信障害といっても、二百キロメートル圏内の通信に支障はない。問題は、圏外への通信、及び圏外からの通信が普通であることだ。


 駆け回る隊員たちの中、白を基調とした半袖の制服に制帽を被り、海上の様子を窺う男性がいる。

 相模修司、四十五歳。階級は海上自衛隊・三佐。現在この『しなの』を預かる艦長だ。

 制服に身を包みながらも、その制服越しに筋骨隆々である様子が見て取れる。黒い瞳は真っ青な太平洋を映していた。


 やや雲が出てきた空の下、海面を凝視する相模。

 そんな彼に駆け寄る人物がいた。副艦長を務める若い士官だ。相模はそちらに目もくれずに、淡々と尋ねた。


「CICは何と言っている?」

「はッ、件の潜水艇は、間違いなく予定ポイントに到達したようです。しかし、謎の通信障害については未だ復旧の目途が立たないと」

「了解した」


 すると副艦長は、一度視線を落としてから、やや震える声でこう言った。


「相模艦長、沈んだ潜水艇にいる生徒たちの救助を早急に実施すべきと考えますが、いかが思われますか」

「その是非は私と監督役だけが決定権を有している。すまんが、貴官に事の詳細を明かすことはできん」

「はッ、し、失礼致しました」


 それにしても、と相模は考える。通信障害の影響で他の海自の艦船との連携が取れない。潜水艦ともだ。これは厄介な事案だ。


 溜息をつきつつ、すっと双眼鏡を下ろしたその時だった。


「ちょ、ちょっと! これはどういうことですか!」


 甲高い女性の声が、艦橋に響き渡った。

 やれやれ。相模は眉間に手を遣りながら、冷めきったコーヒーカップに手を伸ばした。


「相模艦長! 子供たちが乗った潜水艇が沈没したそうですね! 早く救助隊を送ってください!」


 その言葉の主は、池波美香、二十八歳。まだ若いが、使命感の強い女性教師だ。

 小柄で丸眼鏡をかけ、こざっぱりしたショートカットという外見。愛嬌のある丸顔も相まって、男子からも女子からも評判はいいらしい。

 他にも今回の臨海学校に招集された教師たちはいるものの、彼女ほど使命感に燃えている人物はいなかった。それでもまさか、イージス艦にまで乗り込んでくるとは。


 そもそも、彼女がイージス艦に乗艦できるはずがなかった。しかし、生徒たち――海斗たちを含め、五隻の探査艇に乗った二十名――のそれぞれに、大人を同伴させるよう騒いでいたのは池波だった。

 潜水艇の整備や、この海域まで生徒たちを運ぶ都合上、もう一隻の船舶が用意されていた。この三日間、生徒たちははそこで過ごしていた。また、探査艇の遠隔操縦もその船舶から行っている。現在までのところ、支障はない。


 にもかかわらず、池波は単独で乗り込んできた。ホバーバイクを見事に乗りこなして。偶然だろうが、その直後から急に海が荒れだし、池波を強制的に母船に戻すことも難しくなった。よってやむを得ず、乗艦を許可したという次第だ。


「相模艦長! 沈没した潜水艇には誰が乗っていたんです?」


 相模は渋々と言った様子で、ボードを見下ろしながら四人の名前を告げた。

 大原泰一、紺野美希、嶋華凜、そして泉崎海斗。


「あの子たちが……」 

「沈没ではなく着底だ、池波教諭。あれほどの耐圧性を誇る潜水艇が損傷した可能性は極めて低い。酸素が切れるまでにも、十分な余裕がある」


『だから落ち着くように』――そう言いかけた相模は、しかし言葉を切り上げた。池波が華奢な体躯に似合わず、ずいっと顔を近づけてきたからだ。


「それでも、子供たちに何かあったら誰が責任を取るんですか? その取り方は? それがはっきりしていないなら、急いで四人の救出に取りかかってください!」

 

 もっともな話だな、と相模は胸中で呟く。自分に実戦経験はないが、部下や民間人に死傷者が出た場合、どうしたらよいのかについて悩んでしまうのは自衛官の性だろう。


 しかしながら、今回は勝手が大きく異なる。言い方は悪いが、今の自分には『後ろ盾』がいるのだ。

 今は艦橋にはいないが――。まあ、専用の小部屋で涼んでいるのだろう。


 それでも、相模が池波の怒声に何も感じなかったかと言えば、そういうわけでもない。

『責任』という一言が、随分と重く感じられる。周囲にはあまり話していないが、相模とて父親だ。産まれてきたのは女の子で、生後三ヶ月になる。


 子供たちに対して果たすべき『責任』か。しかし、今の自分たちにとっては形骸化した言葉だな。そう自分に言い聞かせながら、再びコーヒーを口にした。


 早く件の四人を回収してやらなければ。ただし、事が終わったら、だが。

 相模は、まだ何か言いたげな池波のわきをすり抜け、自室へ向かう階段を下りていった。


         ※


 ぴとん、ぴとん、ぴとん、ぴとん。


「ん……」


 水滴が落ちる音で、海斗は目を覚ました。

 僕はここで何をやっているのだろう? うつ伏せになって、固い地面に横たわって。頭がぼんやりとしている――夢でも見ているのだろうか?

 

 思いの外、四肢は軽かった。負傷した様子はない。

 起き上がろうとして、ざらついた地面に頬を擦りつける。微かな痛みが走った。と、いうことは。


「夢じゃ、ない……?」


 経験上、海斗は『夢では痛みを感じない』というのが嘘っぱちだと知っている。それでも、五感を刺激する感覚はあまりにリアルだった。

 

 意を決して、瞼を開ける。最初は焦点が合わなかったが、それでもここが漆黒の海底ではないことは察せられた。

 目が慣れてくると、自分たちはどうやらある構造物の中にいるらしいと分かった。逆に言えば、それが把握できるほどの光源があるということだ。


 潜水艇の? いや、違う。もっと柔らかな光だ。

 微かに揺らいでいる。松明だろうか。

 

 海斗は立ち上がりつつ、その灯りを頼りに状況を確認した。この構造物は、やや広い通路状になっている。壁、床、天井の全てが、直方体に切り抜かれた岩石でできていて、その色合いは明るい茶褐色。

 壁や天井から時折しみ出してくる水が、先ほどの水滴の正体のようだ。


「あっ、そうだ……」


 他の皆は? 一体どこへ行った? 

 海斗が慌てて振り返ると、そこには残る三人の姿があった。皆、海斗同様にうつ伏せで、しかし呻き声を上げたり、もぞもぞ動いたりしている。負傷者はいないようだ。

 本当は、廊下はそちら側にも続いていたのだが、それを確認しているほどの余裕が海斗にはなかった。


 それでも、海斗は自らを落ち着けることに成功し――そしていつもの引っ込み思案な『ぼっちモード』に入ってしまった。

 三人を起こすべきなのだろうが、それが大層億劫に感じられたのだ。


 放っておけば、どうせ起きる。自分がわざわざ声をかける必要はない。

 海斗は一つ頷いて、ぺたんと床に尻をついた。自分が一人きりでないことに落ち着きを覚える。


 その安堵感から海斗が溜息をついた、その時だった。

 目の前を、シュン、と『何か』が猛スピードで通過していった。


「どわっ!」


 慌てて身を翻す海斗。それが何なのかを確かめる間もなく、『何か』は引っ込んだ。

 そちらをじっと見遣る。ちょうど曲がり角になっていて、『何か』の本体の姿は見えない。それでも、本体が近づいてくる気配は感じられた。


 ひたひた……ひたひた……。


「ひっ!」


 海斗は後ずさり、壁に背中を預けた。恐怖で目を逸らすことができない。

 先ほどの『何か』が、蛇のようにうねりながら通路の角に引っかかる。そこを支点にして、本体が引きずられてきている。


 海斗の背中を、嫌な汗が流れた。やがて、『何か』の本体がのっそりと姿を現した。

 イカだ。真っ白で、透き通る耳を持ったイカだ。

 ただし、その大きさは規格外。通路の天井からして、体高二メートルはあるのではないか。

 マイナスドライバーのような目をしていて、それがぎょろり、ぎょろりと周囲の状況を探っている。

 それに前後して、先ほどは正体不明だった『何か』、すなわち十本の足が現れた。太さは、大人の胴回りほどはあるだろうか。


 がぽっ、と音がして、両目の間にある口が空気を吸い込む。

 イカって海中生物じゃないのか。そんな頓珍漢なことを考えていると、イカと目が合ってしまった。息が詰まって悲鳴を上げることも叶わず、海斗はびくり、と肩を震わせた。

 動いているものに興味を示したのだろう、イカは海斗に向けてゆっくりと足を伸ばし始めた。


「うわっ、来るな来るな来るな!」


 うずくまるようにして、防御態勢を取る海斗。それでも、このままではやられてしまうのは明らかだ。


「おい、皆、起きてくれ! 怪物だ! でっかいイカが……!」


 誰のものかも分からない背中を揺する海斗。混乱の度合いは酷かったが、それでも自分一人ではどうにもできない、ということは明らかだ。

 

(立ち上がれ、少年!)

「無茶言うな!」

(いいから! 我輩がナビゲートする! ほら、武器もあるから!)

「そんな! 僕に戦う勇気なんて――え?」


 海斗は瞬間的に、ゆっくり近づいてくるイカの足のことを忘れた。

 今の声は何だ? 『我輩』とか名乗る幼女の声だったが……。


(早々にケリをつけるんじゃ、少年! でなければ取って食われるぞ!)


 その言葉、というかテレパシーのようなものが終わるや否や、目の前の床の石片がずれた。何かがせり上がってくる。

 そこにあったのは、岩に先端を差し込まれた大振りの剣だった。

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