深淵のマリンブルー
岩井喬
第1話【第一章】
【第一章】
真っ黒に塗りつぶされたかのような空間に、白い点がぽつりと浮かんでいる。
今にも闇に吞み込まれてしまいそうな光点。しかし、黒い流れに揺られながらもその存在自体が消失することはない。
それは、この闇に負けじと必死に輝きを増しているようにも見えた。惜しむらくは、その健闘を見届ける者がいない、ということだ。
この真っ黒な空間には、何物も存在しない――というわけではない。こんな極限状態でも、生物はしっかりと環境に適応して生きている。
だが、彼らにはその白い光点が捉えられない。理由は単純で、光を感知する器官、すなわち目が退化してしまっているからだ。
八月某日、午前九時。日本海溝房総沖、深度約八〇〇〇メートル。洋上の日光など全く差さないこの暗闇の中、白い光点、すなわち小型有人潜水艇は、ゆったりと漂っていた。
「しっかしあれだな、深海ってのがこうまで味気ないもんだとは思わなかったぜ」
「贅沢言わないの! あたしたちにはせっかくこうやって、最新型の潜水艇で海中探索する権利が与えられたんだから!」
「へいへい、権利ね。このままじゃ、退屈を味わう権利になっちまいそうだが」
「全く、憎まれ口が多いわね、泰一は」
「美希、お前だってさっきよりテンション下がってるじゃねえか。乗り込む前はあんなにはしゃいでたのに」
「そりゃあテンションが高止まり、ってわけにはいかないわよ。あたしは退屈してるんじゃなくて、慣れただけ」
「ああ、そうかい」
そんな遣り取りをしているのは、潜水艇の乗組員だ。二人共現役の高校生である。
退屈だと不満を述べているのは、大原泰一。角刈りで筋肉質な、プロレスラーのような大柄の男子。
そして彼を諫めようとしたのは、紺野美希。ポニーテールに纏めた髪に、さっぱりとした印象を与える化粧っ気のない顔つきの女子だ。
この潜水艇――前方百八十度透明の、超耐圧ガラスで造られた最新型深海探査艇――には、あと二人の乗員がいる。
「ねえ華凜、このあたりに何か面白い地形なんかないのかしら?」
「そうですわね、美希さん。このあたりは地殻変動が激しいから、地形の変化が頻繁であんまり見どころはないようですわ」
のんびりとした口調で答えたのは、嶋華凜。特にどこを見るともなく、ぼんやりと視線を彷徨わせている。
二本のお下げに結わった髪を垂らし、度の強そうな眼鏡をかけた小柄な女子。口調から察せられる通り、生粋のお嬢様だ。
「やっぱりもう少し上昇しないと、面白い生き物は見当たらないと思いますわね」
ここで、微妙な沈黙が舞い降りた。残り一人にどう声をかけたらよいか迷ってしまったのだ。泰一も美希も、そして華凜も。
件の人物は座席に腰を下ろし、顎に手を遣り、皆とは反対側に視線を向けている。
肩まで届くほどの髪で、中背。そしてやや痩せ気味。ただでさえ切れ長の目を半開きにして、どんよりと近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
名前は泉崎海斗。彼もまた現役高校生だが、クラスでは随分浮いている。否、沈んでいる。
いわゆる『ぼっち』というやつだ。今回の潜水艇での深海見学ツアーにおいても、三日前に出会ったチームメンバー三人に対して心を開く気配は一切ない。
そしてそれは、海斗自身の望むところでもある。
「あー……泉崎くん? あなたもこっちから見てみない、海? 結構面白いわよ」
「おい美希、だからさっき言ったじゃねえか、退屈だって」
「泰一はちょっと黙っててよ。せっかく優秀な高校生が集められて、貴重な経験させてもらってるんだから!」
「それでもアイツは聞く耳持たねえよ。この三日間で分かったろ? あんな根暗な奴、相手にするだけ無駄だって」
「馬鹿! そんな言い方ないわよ! まったくもう……」
「へいへい、俺が悪うござんした」
美希はくるりと振り返り、海斗ににこりと微笑んでみせた。
「ねえ、泉崎くん。無理にとは言わないけど、こうして会ったのも何かの縁よ。よかったら、少し話さない?」
「海斗」
「えっ?」
「僕のことは『海斗』でいいよ、紺野美希さん。あと、自分が根暗だってことは僕自身が一番よく知ってる。気にしなくていいよ」
「あ、そ、そう」
納得させられ、すごすごと撤退する美希。
「あらあら、海斗くん、あなたはわたくしたちのことがお嫌いなの?」
「あっ、そんな訊き方したら……!」
天然ボケをかましかけた華凜に、それを止めようと割り込む美希。
だが、海斗は気分を害された様子もなく、
「そんなんじゃない。一人で考え事をしていると落ち着く。それだけ」
と素っ気なく答えた。
続けざまに『何を考えてるの?』と尋ねようとした華凜の口元を押さえ、多少の未練を抱きつつ、美希は泰一と同じ方向に視線を合わせた。
改めて海斗は、自らの過去を振り返る。
随分いじめられてきたな、と学校生活を思い起こす。精神的に致命的なものではなかった。だが海斗の醸し出す暗い雰囲気が、交流を持つ上での阻害要因になってしまっていた。
同時に、酷いいじめを引き起こす原因にも。
海斗には、生きていることに意義が見いだせない。いやそもそも、生きているという実感が希薄だ。
父親が生きていれば、こんな根暗にならずに済んだのだろうか? いじめられずに済んだのだろうか?
それを今考えたって仕方がない。そう割り切って、海斗は再び外の風景に目を遣った。
※
一週間前、東京都内の自宅にて。
「海斗? 海斗! いるんでしょ? 晩御飯できたから、出てきなさい!」
母親の声は、しかし海斗のイヤホンから流れ出すデスメタルの間奏に掻き消されてしまった。
海斗はわざと、母親の声を相殺できるだけの音量で音楽を聞いているのだ。学校にいる時同様、他者の介入を妨げるために。
だがそれも、母親ががちゃり、と海斗の部屋の扉を押し開けるまでだった。
「ちょっと海斗! さっきから何度も呼んでるんだけど!」
「……ああ」
やむを得ずイヤホンを外す海斗。母親は腰に両手を当て、一睨みしてから背を向けた。
その瞬間、海斗には母親の呟きが聞こえた。『女手一つで育てたからかね』と。
それから二、三分後。
「いただきます」
「……いただきます」
その日の晩御飯はカレーライスだった。小さい頃は、その香りがするだけでわくわくしたものだ。
しかし、今の海斗は当時の、父親が健在だった頃の海斗とは明らかに違う。不愛想になったのだ。それは自覚しているが、その度合いは自分で思っているより酷い。
ロクにカレーに手を付けず、ぼんやりと父親の記憶を辿る海斗。しかし、唐突に彼の思索にノイズが入った。
「あら? 泉崎海斗様……。あんたにお知らせみたいよ。ほら、早くご飯食べて、確認しちゃいなさい!」
「……ああ」
感覚の希薄な胃袋に無理やりカレーライスを詰め込み、海斗はその封筒を手に取った。
それが、今回の臨海学校への招待状だったのだ。しかしそれを、海斗は椅子の後ろへ放り投げた。
「興味ない」
「何言ってるのよ、またとないチャンスじゃない! お母さんは詳しくないけど、こんなに深海に潜れる機会って、そうそうあるもんじゃないんでしょう?」
「別に要らないよ、僕は」
そう言って、母親をじとっと睨みつける海斗。しかし、母親の方が思うところはあったらしい。
「あんたねえ、そうやってチャンスをふいにするから人間関係が上手くいかないのよ? これでもお母さん、心配してるんだから」
うぐっ、と海斗は小さく呻いた。確かに、母親に心配をかけたくないという気持ちはあるし、いじめが日に日に酷くなっているという現状もある(今朝はシューズに画鋲が入れられていた)。
この臨海学校に行けば、自分は何か変われるのだろうか? これこそ母親の言う『またとないチャンス』なのだろうか?
海斗は無言で招待状を拾い上げ、自室のパソコンから参加手続きを済ませた。
※
「ふん……」
静まり返った潜水艇の中で、海斗は鼻を鳴らした。他の三人は、再び海中の様子に目を凝らしている。
誰に分かってもらう必要はない。
海斗はかぶりを振って、在りし日の父親の笑顔を脳裏から振り払った。
異変が起こったのは、まさにその瞬間のことだった。
潜水艇内部に、非常警報が鳴り響いたのだ。
「うおっ! 何だ!」
「ちょ、ちょっと、どういうことなのよ、これ⁉」
「落ち着いて、皆さん! 座席についてシートベルトを!」
やけに冷静な華凜。その言葉に従い、海斗もまたシートベルトを締めた。
その間も警報は鳴り続き、天井のランプが真っ赤に輝いた。
「皆、膝の間に頭を入れて、両手を後頭部に!」
出会ってから三日に過ぎない。だが、華凜はいつになく肝が据わっている、そう思われた。
この期に及んで、海斗の心に、するり、と恐怖感が忍び込んでくる。
これは、搭乗員である自分たちの死に直結するような事態なのだろうか?
自分の人生はここまでなのだろうか?
もしそうだとすれば、父親にまた会えるのだろうか?
しかし、四人を見舞ったのは思いがけない現象だった。頭痛だ。
頭頂部の内側が、無理やりどこかに引っ張りこまれていくような感覚。
何故このタイミングで頭痛など起こるのだろう。水圧の影響だろうか? いや、潜水艇自体は損傷していないから、それは関係ない。
悩めば悩むほど頭痛は程度を増していくようだ。海斗は考えるのを止め、華凜に指示されたポーズを取り続けることに努めた。
次に起こったのは、それこそシートベルトが必要な事態だった。潜水艇が、ぐるんぐるんと不規則に、そして乱暴に振り回され始めたのだ。
誰のものかも分からない悲鳴や叫び、それに警報が混ざり合い、鼓膜を圧迫する。
そんな状態にありながらも、海斗は感じていた。
自分たちは、どこかに誘導されているのか……?
何者かの意志を感じる。不思議なものだが、それでも確かにそうだと思ってしまう。
一体、自分の脳みそに何が起こっているんだ? この潜水艇を巻き込んでいる、渦潮状の現象と関係があるのだろうか?
しばらくの後、潜水艇は硬質な何かに衝突したかのような振動を伴って停止した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます