それぞれの家には読みづらいお経がある

 幸孝に告白された。不意打ちじゃなく、なんとなくそろそろ来るだろうと思っていた。が、いざされると困ってしまった。幸孝への好きはなんか違うのだ。湧き上がるような、独占欲的な、負の感情もひっくるめて「好き」っていう結論が出るのに、それがなぜかどうにも出ない。ただ誰かに取られたら、なんか惜しいと思う。でも…付き合うのか…?

「まあ缘分ユエンフェンがあれば付き合えば?」

 小貝がのん気にそんなことを言う。缘分ユエンフェンとは縁のことだ。妙に中国人は缘分ユエンフェンというのを信じており、恋愛相談すれば必ず一回は出てくるワードだ。そりゃあ、14億人いる中でたった1人を探しだすんだもの、縁を感じるはずだよね。

「うーん…」

 自信が元々ない上に、最近の一連の翼の言動でほとほと疲れていたわたしは自分を特別扱いしてくれる存在を無下に断れなかった。

「そういえばさ、小貝は日本語で一番好きな言葉って何?」

「日本語で? うーん、一期一会かな」

 お、出た。だいたい中国人に『好きな日本語』と聞くと、この一期一会を上げることが多い。一期一会とは一生に一度の出会いという意味で、一生に一度しか出会えないのならその出会いに全力を尽くす、という意味だ。

 めぐりあったことが運命づけられているのなら、缘分ユエンフェンにも似ているが、この一瞬しか縁がないのなら、缘分ユエンフェンとは真逆の意味だ。

 ちなみに他の日本語で圧倒的に多いのは「月がきれいですね」だ。日本人から聞いたことはないが、まさか明治の文豪のアイラブユーが日本語学習をする中国人に受け継がれているとは。

「けいは何が好きなの?なんの中国語が好き?」

「いっぱいあるけど…家家都有难念的经ジアジアドウヨウナンニエンダジンだね」

「え、それ?」

「何してんの、二人して」

 二人で振り返ると、翼がいた。図書館にいると、翼に会ってしまう。

「好きな中国語の話してんの」

「へえ、それで?なんて中国語」

 平気そうにわたしの隣に座る。

家家都有难念的经ジアジアドウヨウナンニエンダジンだよ」

と言ってノートに書く。

「家々?どんな意味?」

「直訳だと“それぞれの家には読みづらいお経がある”」

「どういう意味?」

「人の家それぞれその家でしか通じない謎なルールや事情があって、それは他の家の人間からは理解できない。それぞれの家々にはそれぞれの事情があるって意味」

「ふうん、でなんでそれが好きなの?」

「そうなんだよなあって思うんだよね」


 わたしは家族で悩んだことはない。家族はたぶんわたしで悩んでいるけど。でも母親の家庭はちょっと複雑で、私の祖母が今で言うところの毒親だったようだ。祖母は孫のわたしに対しては無茶苦茶なことはしない。しかし、母の兄である伯父は祖父母と絶縁状態で、わたし自身1回も会ったことすらない状況から見ると、わたしの家にも読みづらいお経があるのだ。


 具体的に祖母が何をやったのかは母が話さないのでよく知らないが、伯父のことと普段の祖母の様子から、たぶんひどいことをされてるんじゃないかと思う。その影響の1つで母は読書をしない。何でも幼稚園児の時にまだ文字を習っていないにも関わらず無理やり本を読まされたのが原因らしい。それで母自身は活字が読めない体質になった。


 しかし、子どもができて、あの時の祖母の行動はやっぱりおかしいというのを強く感じたそうだ。そして、子どもには本を読んでほしいと思ったらしく、たくさん読み聞かせをしてくれた。わたしは実は文字を覚えたのは8歳頃で、周りより少し発達が遅かった。それでも根気よく読み聞かせをしてくれた。そして、わたしはのんべんだらりと本を片手に今まで生きてきた。


 大学生になると、いろいろな家庭事情の子の話を聞くようになった。時に解決策を必死で考えても、「でもどうにもならない…」と相手が言い、とりとめのない話をただ聞くだけの時もある。その度に自分の母のことや、この中国語の家家都有难念的经ジアジアドウヨウナンニエンダジンを思い出す。それぞれの事情があって、変えられないのもわかる。じゃあわたしにできることって聞くだけなんだよね。でも、それでも良かったら、コーヒー片手にわたしに吐いちゃいなよ。



 今やスマートフォン1つで外国人と交流できる。そして外国語を学ぶのは正直しんどい。8割は嫌な事、苦しい事で占められる気がする。けど、残り2割のうち、1割は外国語を使って交流することの楽しさ、もう1割は外国語を通じて違う考え方を知るということだと思う。

 今でこそ毒親という親絶対神聖論に抵抗する言葉がでてきたが、わたしが大学生だったころはあまり一般的でなかった。まだまだ「子どもを思わない親はいない」という風潮が強かったと思う。しかし、日本語にはないけど、外国語ではこんな考え方があるって思うと少し世界って広がる。その人が息をするのを少しだけ楽にさせられる気がする。これがわたしが思う外国語を学ぶ意義だと思う。


「そう? 子どもを思わない親なんていないと思うけど」

 翼が平然と言い放つ。ぶちんとわたしの中で何かがキレる。戦争だ。


 こんな感じで、就活も決まり、大学の単位もほぼほぼ取った小貝と翼とわたしたち3人は卒論の執筆のため、度々図書館で会っては子犬がじゃれあうように過ごしていた。


 家に帰り、スマートフォンを取り出すと、翼自身が入れっぱなしにした、翼のフェイスブックをログアウトした。もう意固地になってつなぎとめる必要なんてない。勢いそのまま、幸孝に電話した。付き合おうと言った。

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