どうせわたしたちは満足できない

 あまりにも翼とわたしが手話を覚えないので、ついに特訓が開かれることになった。ろうの真澄ますみちゃんがコーチングしてくれることになった。ちなみにこの施設では女性はみんな“ちゃん”づけで名前を呼ぶ。真澄ちゃんの両親は“聴者”で、ある程度口で会話することが得意だった。

「けーちゃんの手話早い、もっと相手の反応見て話して。翼くんはノリだけじゃなくてちゃんと手話覚えて」

「「はい」」

 うー…難しいな。この味噌カス2人の手話特訓会にもう一人参加者がいた。芽以めいちゃんだった。芽以ちゃんは19歳で、アルバイトをしている。芽以ちゃんは手話ができて、明るくてかわいかった。芽以ちゃんはこんな初歩の手話がとっくにできるので、

「手話で“桃太郎”やって」

と“桃太郎”を手話で演じてくれた。芽以ちゃんは手だけではなく、表情も豊かで、かつわたしたちの反応もみて“桃太郎”の話を進めてくれる。


 なんか紙芝居でも見てるみたいだ。施設にいる子どもの気分で“桃太郎”を見ていた。


 その後芽以ちゃんの表情が浮かないことに気づいた。子どもが帰った後わたしと翼と芽以ちゃんは掃除をしていた時だ。

「どうしたの?」

「わたし“馬鹿”だから失敗ばっかするんだよね」

 その失敗は本当に他愛のない聞き間違えだった。

「そんなことないって!」

「そうそう、わたしなんかしょっちゅうよ」

 事実、ほとんど手話を話せないわたしたちからすれば、“馬鹿”だなんて思うはずもなかった。

「わたし、中卒なんだよ」

「あ、そうだったんだ?」

 現在はフリーターだろうなとは思っていたが、中卒だったとは知らなかった。高校進学もしていたが、人間関係が原因で中退してしまったらしい。

 でもそれを知ったからと言って、何も芽以ちゃんに対する気持ちは変わらない。それはたぶんこの施設で働いている他の人も同じだと思う。

「“馬鹿”だからどうしようかなって思うよ、本当に…。それに中卒って恥ずかしいじゃん」

と頭を抱える。

「それって誰かに何か言われたの?」

とわたしが聞いた。

「ううん」

 そうだと思った。そんなことを言うような奴がどうかしているのだ。わたしは「そんなことないよ」と言うのだが、芽以ちゃんには全く届かなかった。おろおろするわたしは隣にいる翼を見た。翼は珍しく、何も言わずに神妙な面持ちで芽以ちゃんを見つめていた。

「?」

その時は不思議に思っていたが、翼は超進学校の落ちこぼれで、うちの大学にやってきたということもあってか、何か思うところがあったのかもしれない。


 結局、芽以ちゃんの抱えるのは『中卒』というよりも『彼女自身』にあるように感じた。

 芽以ちゃんは素敵な魅力の持ち主なのに『中卒』という点に囚われていた。そしてこれは他人が何を言っても埋めてあげることはできないのだ。学歴なんて、わたしのようなポンコツ人間からすれば本当に関係ないと思うのだが、学歴とは大多数の人にとっては“自分自身のためにある”ものなんだろうと思った。



 大学を卒業した後、わたしは中学の同級生に再会した。彼女は関西の超名門O大卒業後、外務省に入省した。外交官として担当の国に赴任することが決まり、その前にフェアウェルパーティーを行ったのだ。華々しい活躍ぶりである。

 昔から賢く、かつユーモアがある人物で、彼女の作文はとっても面白かった。また彼女は帰国子女ではないにもかかわらず、英語のスピーチコンテストに出ていたので、純ジャパのわたしを熱くさせた。

「わたしの周りの男性外交官はとっくに結婚してから駐在してるけど、わたしはまだまだ先だなあ」

「そりゃ外交官とかはモテるだろうね、は」

 わたしはその椅子取りゲームを想像する。

「わたし学歴で後悔しているの」

「え?」

 どうしてだろう。どこにもほころびが見つからないのだが。

「周りはさ、東大とかばっかなんだよ。わたしの大学なんて全然だめ…」

とうなだれてそう言った。


 …なんで? O大卒で外交官でも結局満たされないの…? 


 たとえ東大に行ってもきっとこんなふうに後悔することがあるかもしれない。ハーバード行きたかった、とかね。結局わたしたちはどこまで行ってもものなのだ。


――ああ、これは終わらないことなんだ。


 わたしは彼女の話を聞いて以来、学歴のことを考えるのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。学歴は大切だとは思う、でも学歴を考える上で大切なのは“自分自身”に折り合いをつけれるかどうかなのだ。どうせ満足なんてできないものなのだから。

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