プライド

 翼の高校はかなり偏差値が高く、彼はその学校の落ちこぼれだったそうだ。彼の出身が他県のため、よくは知らなかったが翼曰く、

「この大学に入ったことを言うことが恥ずかしいぐらい」

だそうだ。彼の人生にもそんな影があるとは知らなかった。ずっとエミネムみたいな恰好をしてウェイウェイ大学生をやってるものだと思っていた。


 学力的偏差値はさておき、彼のコミュ力偏差値はろうの世界に飛び込んだ後もすごかった。まず初日。公園にみんなで遊びに行った。フリスビーを持った翼がろうあの子どもと遊んでいた。

 翼はフリスビーを飛ばしたふりをしてきれいに自分の後ろに隠していた。そのうち子どもが気づき、歓声を上げて翼を指さす。彼はオーバーめに「何のこと?」というリアクションをとる。そうやってろうあの子どもを楽しませていた。まだ初日なので、翼はほとんど手話を話せなかった。だからパントマイムのような方法でろうあの子どもと遊んでいたのだ。また施設には中学生や高校生もいるのだが、彼らとは他愛のない話から進路のことを話したり(筆談したり)していた。翼のようなお兄さんがいればそりゃ親しみと憧れを持つだろうなと思う。

 全く話せないのに、3か月前に入ったわたしよりもものすごいスピードでこの施設になじんでいった。こわいのよ、あんた。


 さてろうの話でわたしが一番印象に残ったことをこれから書こうと思う。翼の歓迎飲み会で、ろうあの人が手話で言ったこの言葉だ。


「わたしはろうであることにプライドがある。生まれ変わっても“ろう”になりたい」


 来世では耳が聞こえる人生を歩みたいとかではなく、来世でも“ろう”として生きたいというのだ。聴者には解りにくいこの感覚、一体どういうことなのか? 


 ろうとして生きれば、ろうコミュニティに入ることになる。逆に言うと、ろうコミュニティに入るにはろうとして生まれてくるほかない。そして彼らはそのコミュニティにいる時、全く障がい者ではない。だいたい大多数のろうは自分を障がい者とは思っていない。日本語、英語、中国語のように、異なる手話という言語を単に話すだけのことだ。ろうはろうとしてプライドを持っている。

 

 わたしはそのことに強い衝撃を覚えた。彼らと3か月間ともに過ごして、確かにろうであることって、障がいなのか?と思うことも多かった。結局大多数が聴者だから、聴者にろうが合わせる時、“障がい”と呼ばれるだけの話なのだ。しかし、彼らのプライドとは来世までもそうでありたいと思うほどのものだったとは思いもよらなかった。


 実はわたしは彼らと似て非なる悩みを抱えていたのだ。わたしの聴力は機能的に全く問題ないのだが、耳からの情報処理能力が極端に悪い。聞き間違えが多く、口で言われたことを理解するのが難しいのだ。周りが雑音だらけだと聞き取りにくいし、集中できない。

 でもそれはずっと自分のやる気のなさや頭の悪さが原因だと思っていたし、周りもそうだと思っていた。だからこの頃ずっと、バイトもまともにできない自分が嫌で嫌でたまらなかった。ああ、このままじゃどうしよう、と思ってすがるようにのめり込んだのが男でもなく、宗教でもなく、中国語だったのだ。中国語を選んだのは中国語が好きだったから、でも続けてこれたのは自分だって何かできるんだってことを証明したかったからだった。


 わたしは来世では絶対に自分になりたくなかった。来世では現世では叶えられなかった夢を叶えたかった。だからろうも同じだと思っていた。しかし、彼らはわたしとは圧倒的に違ったのだ。健常者と障がい者という二項対立ではない、わたしと彼らの違いを思い知った。


 このことがろう、そして障がい者を理解する上で自分の中でターニングポイントとなった。


 薄い緑茶ハイを舐めながら、そのことを知った衝撃を受け止めていた。

「なあなあ、けい、これ」

 翼がげらげら笑いながら話しかけてくる。おい、今余韻に浸ってんだよ、邪魔すんなよ。

 見ると女性スタッフが指を組み、手のひらの下側をひっつけたり離したりしていた。

「なんて意味?」

「セックス」

「…」

 馬鹿じゃないの、もう。…まあそういわれるとそういうか。

「これ関西の手話らしいんだけどね」

とその女性スタッフが言った。手話というのもそのローカルでしか通じないものも多いのだ。

「全国的にはこう」

 両手の人差し指と中指だけを伸ばし、指の腹側を十文字に重ねる。二人の重なった足を表現しているらしい。な、なるほど…。

「へえ…覚えておこう」

 翼がにやりと笑いながらそう言った。確かにあんたなら使いこなせそうだ。まじでこわいのよ、あんた。

「ちなみに男同士のセックスの場合もあって」

「「へえどんなんなの?」」

 氷が溶けきった酒を片手に、下世話な話題が花開く。わたしと翼はこうして手話を満足にしゃべれないのにも関わらず、全く使わないだろう手話ばかり覚えていった。

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