聴者と呼ばれる世界へ

 留学準備でばたばたと2年生を過ごしていた。留学窓口や説明会、保険など準備をする中で、カナダ留学に行く翼とちょくちょく顔を合わせては軽く挨拶するようになった。風の噂であの綺麗な彼女とは別れたらしいことを聞いたが、相変わらずいろんな女の子と付き合ってるのか、噂は絶えなかった。どの女の子も背が高くて、派手で可愛かった。

 そうこうしているうちにそれぞれの国へ行くことになり、1年は顔を合わせない上に連絡も取ることがなかったため、何もお互いのことを知らないまま、1年後再会した。


 わたしたちは3年次に留学したため、周りは4年生として就活で勤しみ、授業にもほとんど参加していなかった。そのため、わたしたちは下級生に混じりながら授業を受けていた。そうなると、大して親しくもなかったが、顔を合わせては授業の内容共有や就活準備などを話すようになった。ちなみに麗香だけは唯一単位危機のため顔を合わせていた。

 あの時のわたしは、イケメンではないものの、目立つ人物と知り合いだということが嬉しかった反面、いつ飽きられるかビクビクしていた。陰キャの胸の内はなんとも複雑なものだ。


 その頃、わたしは写真屋をクビになり(そう、わたしは人生で2度ほどクビを経験したポンコツ人間)、あるバイトに流れ着いていた。それが一風変わったバイトだった。聴覚障がい児施設でのサポートという仕事だ。きっかけは大学のバイト募集に応募したことだった。もう普通には働けない…(まさか6年後同じこと考えているとはつゆ知らず)と思っていたので、福祉的な仕事でしかも時給が出るの!とこのバイトに飛びついた。それに、こんな機会がない限り、聴覚障がい者に会うこともないだろう。いい機会だからと考えて(今考えるとなんとも傲慢な考え)早速応募し、なんとか受かって働いていた。


 聴覚障がい児と言うのだから、手話で話しているのかと思いきや、全く違うのだ。わたしの初めての印象は…


 騒がしい!


 なんでかというと、今の子どもは小さい時に聴覚障害が発見されると、人工内耳という器具が付けられる。人工内耳は赤ちゃんぐらいの時に耳の中に機器が埋め込まれ、外につける体外装置によって音を拡声させるのだ。この手術が普及しているので、話せる“ろう”が多くなった。とはいえ、話せるのだが発音も明瞭ではなく、大きな声で皆喋る。だから騒がしいのだ。ちなみに“ろう”という言葉はわたしたちは差別用語のように誤解しがちだが、当人たちには普通の用語で、自分たちのことを日常的にそう呼ぶ。


 わたしはこの世界にいる時だけ、「聴者」となる。このろうの世界にて、「健常者」という存在はいなくなる。正常異常の区別ではなく、となる。

「ここではあなたが“障がい者“となるんだよ」

 それがどういう意味か、わたしはその後たっぷりと思い知らされることとなる。そしてわたしの価値観に大きな変化をもたらす出会いでもあった。


 大多数の子どもが話せる世界とはいえ、基本的に皆手話を交えて話していた。もちろんの子どももいるので、その子達とわたしの会話は困難を極めた。だから周りにいる会話ができて手話もできる子に通訳してもらうことがしょっちゅうあった。


 あ、まじでここではわたしが障がい者だ…!


 彼らのことを知れば知るほど、障がい者ではなくて、単に別言語を使う少数民族というように思えてきた。それほど、彼らは独自の言語と文化と誇りを持ち生きている。面白いバイトだ。


 ということを翼に話した。翼もまた好奇心旺盛な人間だったので、

「俺もやりたいんだけど、そのバイト。まだ応募できるかな?」

 と言った。

「え、うどん屋のバイトどうすんの?」

「やめる」

「いいの? 時給がめちゃくちゃ高いわけじゃないんだよ」

「いい。だって面白そうなんだもん」

 そう言うと翼は自分でわたしのアルバイト先に電話をかけた。

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