第5話 ひまわりは空を見上げる

「——そして。ここへたどり着いたんだ」

 老人との会話から紡ぎ出された言葉を、ただ呟いた。


「そうして、はるばるここまでたどり着いたんだね」

 そう言って、チノパンにパーカーとスニーカーという旅行者とは思えない光喜のラフな身なりを老人は軽く一瞥した。


 ドクンと心臓が大きく波打った。

 そうだ。——オレは、キャリーケースも持たずにどうしてこんな普段着でいるのか。——そもそも、ここにはどうやって来たのか。航空機か。・・・・・・さっぱり思い出せない。ここに至るまでの道程が、すっかり抜け落ちてしまっている。


◇ ◇ ◇


 ――人は忘れることができる生き物である。さりとて、忘れることによる弊害が全くないとは言い難い。


 懸命に記憶に糸をたぐり寄せる。――深い森の霧が緩やかに晴れてゆくように、少しづつ記憶が戻ってきた。


 病院に搬送されたあの日、オレは意識が肉体を離れて自由に飛び回る夢を見た。上空から自分の住む街を一望したところまでは覚えている。――その後どうだったか。オレは今まで何をしていたのか。


 さらに脳みそを絞り思い返す。そして、その記憶を思い返そうとする行為自体が、どこか初めてではないような気がする。


 そういえば・・・・・・強く琴線きんせんにふれる場面を思い出した。――どうして今まで忘れていたのか・・・・・・。


 喪服に身を包んだ宮崎のおばあちゃんが、わななく手で棺の中に花を差し入れている。棺の中に横たわるオレの顔の横に花を添えると、人目もはばからず泣き崩れた。 

 そんなおばあちゃんの背中を、お母さんがなだめるようにさすっている。


 その様子を夢でも見ているかのように、どこか他人事ひとごとみたいに無表情で眺めている自分がいた。


 そうだ、――思い出した・・・・・・。やっぱりそうだった。いや・・・・・本当は心のどこかで解っていた。


 ――オレは、すでにことを・・・・・・。


 ただ、その受け入れがたい真実から、目を背けたくて自ら記憶を封印していたのである。


 呆然と自分の告別式を見届けた後、まとまらない思考状態で、あてもなく彷徨さまよった。

 ぐちゃぐちゃな頭の中にあるのは、長く苦しい闘病生活の末に死んでしまった自分をはかなむ気持ちと、やりたいこともやらずに未練を抱えたまま死んでしまった自分を哀れむ気持ちの二つで満たされており、他の感情が入りうる余地はない。

 

 満たされない魂は、その想いを満たすために、同じ事を何度も繰り返す。――そう。満たされるその時が来るまで何度でも。


 ある時は誰もいないカラオケボックスに一人立ちつくし、またある時は、馴染みの焼肉店で見知らぬ家族の団欒だんらんをぼんやりと眺める。


 そして、夢の終点はいつもこのバスストップだった。一人ベンチに腰掛け、丘一面に広がるひまわり畑を眺めている。

 太陽に向かって力強く背を伸ばすひまわり達を眺めているうちに、どこか居たたまれない気持ちになり、敗北感を覚えたかのように伏し目がちにベンチを離れた。

 

 ここから先の記憶はない。――正確に言うならば、ベンチを離れたその先から積み重ねる記憶が存在しない。

 失意のうちにベンチから立ち上がった時、光喜の魂は、満たされない想いを満たすために、また同じことを延々繰り返してきたからだ。


 言うなれば、このバスストップは夢の終点であると同時に、終わると思っていた夢が、もう一度振り出しから繰り返されてしまう悪夢の起点でもある。


 何度も何度も、――失意に駆られながら同じことを繰り返す。


 それは、出口のないと解っている迷宮ダンジョンに自ら足を踏み入れておきながら、それでも懸命に出口を求めて彷徨さまよい歩き続けるようなものである。


◇ ◇ ◇


「——そうして。またしても、ここへたどり着いたんだ」

 すべての記憶がよみがえり、言葉が漏れた。


「改めて言おう。そうして——ここにたどり着いたのだね」

 老人は、やっとリストから指を離した。


「・・・・・・。ええ」

 ずっと一人で彷徨さまよい続けた。——そして、また、すべての記憶がリセットされて、この孤独で終わりのない旅が続くのだろうか。


 否。——オレが今まで、この孤独な旅を何度繰り返されたのかは分からない・・・・・・。だけど、自信というか確信を持って言えることがある。

 今、——オレは独りではない。このベンチには老人がいて話を聞いてくれている。


 そして、老人は大切なことを光喜に気づかせてくれた。


 自分のことをずっと不幸だと思っていた。はかなんでいた。哀れんでいた。満たされなかった未練を引きずり続けた。

 しかし、違っていた——。

 老人から導かれるように、自分の身の上話を口に乗せてゆくうちに、光喜の人生は決して不幸なものではなかったことを、会話を通じて気づかせてくれた。


 光喜が入院中に書き綴った『やりたいことリスト』は、すでに叶えられていたのだ。

 そして、リストの最後の行には、『アルムテルダムの郊外にあるひまわり畑を見に行く!』と書かれてある。


 確かに、短命に終わった人生だったかもしれない。

 しかし、その人生は愛情と友情に満たされた豊かな人生であったことを、消えることのない聖痕せいこんとして心に深く刻むことができた。


「長い旅だったね・・・・・・。そして、今度こそ本当の終点じゃよ」

 その瞳はすべてを理解している。


「・・・・・でも。——あなたは・・・・・、どうしてオレにここまで・・・・・」

 光喜は両手で髪をくしゃりと掴み、背中を丸め小さく嗚咽した——。 

 胸のうちに抱えてきた想いや戸惑い。光喜が吐露とろしたすべてを、老人は受け入れ黙って聞いてくれた。


「最初に言ったではないかね。——儂は、バスに乗る人を待っていると」

 幸せは何気ない所にたくさんちりばめられていて、気づかないことも多い。いや、多くの人が幸せというものを強く求める。求めすぎて他者から奪うことも辞さない者もいるくらいだ。

 それほど強く求めているにも関わらず、幸せとはあまりにも抽象的な存在であるため、仮に自分が幸せな状態にあったとしても、その恩恵によくしていることすら気づかない。——それを気づかせてくれるために、老人はこのベンチに座っていたのだ。


しばらく沈黙が続いた。——遠くから聴こえる鳥の鳴き声が静寂感をさらに強める。


「——まだ、何かやり残したことはあるかね?」

 老人が問いかける。強さと温かさと、そして憐憫れんびんを宿したいつもの瞳で。


「——いいえ・・・・・・。ありません」

 俯いたままかぶりを振った。光喜の足元に、温かい涙が一つ、また一つこぼれ落ちる。


 ずっと悪い夢を見ていた。——夢と現実との境界が曖昧になってしまい、あやふやな世界を終わりなく彷徨さまよい続けた。


 そんな悪夢にピリオドが打たれようとしている。光喜自身の手によって。


「陽が射してきたようじゃ・・・・・・ごらん」

 老人は眩し気に空を見上げ、目を細める。


 背中に陽の温もりを感じる。うな垂れていた頭を持ち上げ、頬を伝う涙を拭った。


 涙でぼやけた視界のその先に、雨露をキラキラと輝かせながら、太陽に向かって凛と立ち並ぶひまわり達の姿が、颯爽と目に飛び込んできた。



 止まない雨はない。——いつか陽が射すことを信じ続け、どんなに雨に打たれても、ひまわりは空を見上げる。


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