第2話 ひまわり畑と老人

 ・・・・・・あれから、だいぶ時間が経った気がするな。


 眼下に燦然さんぜんと輝くひまわり畑を眺めながら、光喜は、回想と現実に映る世界の狭間というか泡沫うたかたの世界を漂っていた。


「美しい。という言葉なんぞでは、この景色を表すには全然、心に響いてこないと思わんかね?神が創りたもうた世界を、言葉で表現するには人は幼すぎる」


「えっ⁉」いきなり声を掛けられ、しかもその声の発生源が、かなり至近であったことから、光喜はもたれかかっていたベンチから跳ね起きた。


 ドクドクと高く波打つ心臓をなだめるように、無意識に手のひらを胸にあてながら、声の方に顔を向けると、光喜がもたれかかっていたベンチの端に、いつの間にか小柄で総白髪の老人がちょこんと腰掛けていたのだ。


「――そう思うじゃろう?」


 どこか悪戯っぽい視線を向けながら笑う老人に対して光喜は、ただ眼を丸くすることしかできなかった。


「お前さんアジア人だね?」

 こちらの反応を無視して、老人が問う。

「はい――。日本人です」

 声が裏返らずに返答ができ、ビビってしまったことを悟られなかったと光喜は心裡こころうちで安堵した。

「お前さんたちアジア人の黒髪は艶やかで本当に美しい。特に、日本人の白くて絹のように細やかな肌はまさに芸術だ」

「――そうなんだ・・・・・・。ありがとう」

 老人が日本人のことを褒めたポイントについて、光喜にはよく理解できなかったが、日本人が褒められたことに対して悪い気はしなかった。


「おじいさんは――、地元ここらの人?」心が落ち着いてきた。

「ああ」

「毎日、こんな景色見てるの?」

「そうだな――。儂はほかの国は知らんが、初夏のこの景色が世界で一番と思っておる。じゃが、白銀に覆われたこの丘が朝日を浴びて光り輝く姿も圧巻だな。その姿を見る度に神の偉大さに触れることができる」


 言葉の端々に、「神」という言葉が出てくる。宗教観の違いだろうか。


「おじいさんは、ここでバスを待っているんですか?」

 神を身近に感じ取れる老人に対して、どう対処するのが正しいか分からず、若干の畏敬の念を込めて丁寧な口調に改めた。


「いや――。儂はバスなど待っておらんよ。儂が待っているのはバスに乗る人じゃ」


 うん・・・・・・? バスストップで、バスに乗らずにバスに乗る人を待つ? 老人から予想外な返答を受け、光喜の頭に、疑問符がいくつも浮かび上がる。


「まあ半分の理由はな。もう半分は、お前さんと同じじゃよ。魂まで吸い込んでしましそうなこの景色に、しばらく惚けていたいだけじゃ」


「オレ、惚けてた?・・・・・・みっともないな。でも、やっと、今までずっと見たいと思っていた最後の景色にたどり着くことができたんです。この景色を前にした途端、色んな気持ちがこみあげてきちゃって・・・・・・」


 自身の心裡に整理できていない気持ちを無意識に認識してしまったようで、自分の声が尻すぼみに小さくなってしまうことを自覚した。


「君はずいぶんと遠い所から来たみたいじゃな。良かったら、ここにたどり着くまでの道程や思い出を聞かせてくれんか?バスが来るまで、時間はたっぷりとある」

 老人は悪戯っぽく笑いながら、ほとんど空白のバスの時刻表を指さす。


「おじいさん――。オレはバスになんて用はないんですよ」

 お年寄りに対して不敬だな――。感じながらも、その笑い顔がなんとなく自分を馬鹿にされたような気がして、訳もなく言い返してしまった。


「じゃが、お前さんはここが今までずっと見たかった最後の場所と言っておったではないかね?ってことは、ここを見た後に、戻るべき場所があるんじゃろう」


「・・・・・・」

 人の話をまるで聞いていないように一方的に話しかけ、そのくせ、こちらの言葉は一言一句聞き逃さない。スキのないじいさんだ。これでは、舌鋒・答弁で勝てる気がしない。

 分かりました。僕の負けですよ。すべてお話ししますとも。

 光喜は、額を押さえながら、かぶりを振った。


「僕は、東京の病院で、半年ほど入院していました」

 光喜は、老人の方に顔を向けず、ひまわりを眺めながら独り言のようにつぶやき始めた。

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