第五幕『ここがあたしたちの決戦場』
第21話『あこがれた』
週末。土曜日正午ちょうど。第三回戦第一試合『攻城戦』、開始。
途端、校舎が弾けた。
***
「…………トウカ」
「こんにちわ。兄さん」
扉を開くと、そこには見慣れていたはずの妹の顔があった。
アキハルはなるたけ平静を装い、心の中で深呼吸をしてから口を開く。
「急に、どうした。お前が連絡もなしに来るなんて珍しいじゃないか」
「はい……。直前まで、本当に尋ねていいのか迷っていましたので」
「……そうか」
「…………」
気まずい沈黙。妹だというのに、何を話せばいいのかわからなくなる。
「とりあえず上がるか?」
その至極当たり前な提案に、トウカは少し躊躇うような間を置いてから、
「……はい」
そう、頷いた。
「麦茶しかないけどいいか?」
「あ、はい。お構いなく」
自宅に二つしかない座布団のうち一つに促し、トウカはちょこんとそこへちょこんと座る。
先日やってきたサヤとは違い、特に部屋を物色も観察もせず、ただ借りてきた猫のように大人しくトウカを座している。
そんなトウカに、唯一使っていないコップに麦茶入れて前に置く。
「ありがとうございます」
他人が見れば、きっとこの少年少女二人を兄妹とは思わないだろう。
そんなことを考えつつ、目の前に座るのも居心地が悪い気がして、アキハルは立ったまま自ら入れた麦茶を啜る。
「綺麗にしてるんですね」
部屋をチラリと見て、トウカはそう呟く。
「あ、ああ。あんまり、物は置かないようにしているからな」
「そうですか」
そこで会話が途切れる。
気まずい。自分の妹だというのに、どうしても会話が続かない。
そんな、心の中で四苦八苦しているアキハルとは違い、トウカは落ち着いて部屋を見る。
物は置かない。そうは言うが、空っぽになった本棚とその横に置かれた大きめの段ボール箱を見てトウカはいろいろと察してしまう。
「休日だというのに、朝から勉強してるんですね」
部屋の端に置かれたデスクの上に置かれた参考書とノートを見て、トウカは呟くように言う。
「ああ。まぁ、な……」
トウカは先日部室に乗り込んできた女の子のことを思い出す。
「部活」
一瞬、ギクリとアキハルの肩が跳ねたことをトウカは見逃さない。
「部活、辞めたそうですね」
アキハルはすぐには答えず、一瞬間を置いてからようやく口を開く。
「あ、ああ。よく知ってるな。ああそうだ。部活は辞めたよ。よくよく考えれば、あんまり部活動とかそういうのタイプじゃないしな。もっと軽い部かと思ってたら、思った以上に厳しくてな。勉強の時間もとれないから、この前お前にいろいろ言われた勢いのまま辞めちゃったよ」
「…………」
「まぁちょうどよかったよ。勉強できないんじゃあ元も子もないしな。それに、今度はちゃんといいとこに進学しないといけないし。高天原も悪くないけど、次はもっといいとこ行かないと、お前にちゃんと胸を張れないからな」
「っ…………」
カランと、コップの中の氷が揺れる音がした。
「どうして――」
「え」
「どうして、ですか……?」
途端顔を伏せてそう言い出すトウカに、アキハルは動揺する。
「どうして、そこまでして私なんですか?」
「トウカ、どうし――」
「どうして、そこまでして私に気を使うんですか? もっと、私なんか無視して、もっと自分のやりたいようにやればいいじゃないですか!」
「っ……」
「確かに、私は兄さんがやっていることを不快に思っています。気持ち悪いと心底思っています。それでも、兄さんが本当にやりたいと思うことなら、私や、お母さんやお父さんのことなんかはね除けて、胸を張って続ければいいじゃないですか! やりたことも、やれる場所も、応援してくれる人だってちゃんといるのに、なんで……、どうして兄さんはそうまでして、私に……私なんかに……」
俯くトウカの肩が震えているのがわかる。
なぜトウカがここへ来たのか、アキハルにはわからなかった。
ただわかったのは、トウカもあれから苦しんでいたということ。
アキハルが厨二病を辞めることを決意した、あの一言から。
「トウカ」
アキハルは静かに、震えるトウカの肩に触れる。
昔より少しだけ大きくなったトウカの肩は、しかしやはりあの時の小さなままで。
トウカがどうしようもなく自分の妹だということを実感させられる。
「トウカ。俺は別に、厨二病を辞めるのが嫌だとは思ってはいない」
しかし、トウカは首を振る。
「いいえ、嘘。嘘です。兄さんはずっと悩んでました。悩んで、苦しんで、それでも私や家族のためだって。そう思って中学三年間続けてきたことを辞めたんでしょ」
「……確かに、あの時はすごく悩んだし、せっかくできた仲間を裏切ることに苦しんだ。どっちが楽かを考えたら、間違いなく厨二病を辞めないことだったから」
「じゃあ、どうして……」
トウカにはわからない。
そうまでして……、好きなことを辞めてまで自分を尊重する意味が。
「どうしてって、そりゃあお前……」
だからこそ、
「お前が大切な、妹だからに決まってるだろうが」
アキハルの次に出てくる言葉を、予想すら出来なかった。
「え……?」
「俺はお前の兄貴だ。実の兄が、
目を赤くして見つめる妹。そんな顔をしてほしくないはずなのに。
どうしても自分が選ぶ未来は妹をそんな顔にさせてしまう。
情けない、限りだ。
昔と変わらず泣き虫な妹の目元をアキハルが拭おうとすると、トウカはふるふると首を振る。
「ううん……、違うんです。本当は、違うんです。私が認められなかったのは、病気になった兄さんじゃなくて……。私が認めたくなかったのは、私の知らないところへ行こうとしていた兄さんなんです」
喉を震わせて、吐き出すようにトウカはそう言う。
「私、怖かったんです。兄さんが病気になって、でも今まで以上に活き活きとしていた兄さんが。いつかどこか私の知らない場所へ行ってしまうんじゃないかと思って……。実際、兄さんは家にいることが少なくなりました。そしてたまに見る兄さんも、会う度に私の知らない兄さんになっていました」
「トウカ……」
そんなことを、思っていたなんて。アキハルは想像だにしていなかった。
「私、怖かったんです。私の知らないところで、私の知らない兄さんになってしまうのが。だから私は、楽しそうにしているあの時の兄さんを否定して、昔の――私の知っている兄さんに戻ってくれるように言ったんです。そうすれば、兄さんはどこにも行かないと、そう思って」
両手で顔を覆うトウカは、やがてパッと顔を上げる。
その顔は、哀しそうな笑顔だ。
「でも可笑しいですよね。その結果、兄さんは家を出てしまったんですから。本当に私、何がしたかったんだろ……」
トウカの声は次第に小さくなる。
こんな時、漫画の主人公なら気の利いた言葉の一つでも掛けられるのだろうが、生憎、漫画の主人公などではないアキハルには、気の利いた言葉など思いつかない。
「でもそんな時、言われたんです」
アキハルが言葉を探していると、トウカが不意に声を上げる。
その声は既に、震えてはいない。
「あの子に。兄さんは今でも頑張ってる。兄さんは今でも、ちゃんとカッコいいと」
「あの、子……」
思い当たる人物に、一人だけ心当たりがある。
「それで思い出しました。私が見たかった兄さんは、私の中にある理想の兄さんなんかじゃない。勉強ができる兄さんでも、スポーツができる兄さんでも、誰からでも好かれる兄さんでもない。私が好きだった兄さんは、ただカッコいいだけの兄さんなんです」
それは、ひどく曖昧で、聞きようによっては差別的にさえ思える非道い言葉。
だけどアキハルにはちゃんと理解できていた。その、カッコいいの意味を。
「昔のように、どんなことにも挑戦して見せた、カッコいい兄さん。そんな兄さんに、私は憧れたんです。だから……だからどうか、もしも兄さんがこんな正直になれない妹でも、まだ妹だと思ってくれるのでしたら、どうか
縋り付くように、妹はアキハルの手を取る。
実家にいたときよりも、前に見たときよりも少し大きくなった妹。それでも、たとえいくつになっても、たとえどれだけ背が伸びようと、アキハルにとってトウカは妹であることに変わりはない。
どんなに憎まれようと、どんなに蔑まれようと、それだけは決して変わりはしない。
「ああ。わかったよ、トウカ」
そう言って、アキハルは立ち上がる。
「あ……」
離れる手を、トウカは名残惜しそうに指を伸ばすが、すぐに引っ込める。
それを見て、しかしアキハルは笑う。
「悪い、トウカ。兄ちゃん、少し行ってくる」
それを聞いてトウカは瞼を少し擦り、頷く。
「……はい。私はここで、兄さんの帰りを待っています」
「……そうか」
アキハルは何かを言いたげに間を置くが、すぐに思い直し身支度を済ます。
「兄さん」
玄関で靴を履いていると、再びトウカが声を掛ける。
「あの子……あの人から伝言です。試合の場所は学校、だそうです」
「……わかった」
それを言った「あの子」の姿が想像できて、少し顔がにやけてしまう。
「それじゃ、トウカ。行ってくる」
「はい、兄さん。行ってらっしゃい」
そのやりとりに懐かしさを感じて、アキハルは玄関の戸を開く。
「トウカ」
「はい、兄さん」
「ありがと」
それだけを言って、玄関が閉まる。
「こちらこそです。兄さん」
そんな言葉が聞こえてきた気がしたが、今は振り向かず前を向く。
「今度アイツに、何か甘いものでも奢ってやらなきゃな」
そんな決意を新たに、アキハルは走り出す。
とりあえず今は、試合の舞台である学校へと。
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