第5話 愛する者
「兵士らへの
前方の海面に浮かぶ兵隊長にねぎらいの言葉をかけながら、王は港の隅々に視線を走らせました。
桟橋から降りた姫が正面にいますが、目をかける様子はありません。今の王は、試練の結果を見届けにきた海人界の統治者であり、娘に気をそらす父ではないのです。
「試練を唱えた者はいずこに!」
威厳に満ちた低い声が波をさざめかせました。
「僕はここにいます」
若い声が応えました。港に並ぶ家々の間をぬけ、青年がゆっくりと歩いてきました。
姫が予想していたように、その手には何も持っていませんでした。隣に誰かを連れているわけでもありません。
「見れば、試練は果たしていないようだが、いかがした」
「その件ですが・・」
青年は、大アザラシのように威圧感のある王を わずか数波近くに見ても
「僕は、あなたから与えられた課題を考え続けていました。ですが、わかりませんでした。舌を切る以前に、愛する者のことさえ、わからなかったのです」
「ならば、試練は果たされなかったということになる。お前は、姿を見られた海人によって命を奪われる。両の者、我が前に!」
王の言葉とともに、青年は兵士らに海に引きずり込まれ、舟籠の横に浮かんだ鯨の背に投げ上げられました。
『とうとう、この時がやってきてしまった』
避けることのできない事の流れに心を砕かれながら、姫は王の面前に泳ぎ寄りました。
「では、姿を見られた者よ、役割を果たせ」
王は腰に結んでいた短刀を引き抜き、姫に手渡しました。
『人間が海人を愛す…この愚かな想像が、真実であることはないの?もし真実なら、私は舌をなくしてもかまわない』
「王様、もしやこの者は、自身が愛する者に気づいていないのかもしれません。ならば愛する者が解らないと答えるのも道理というもの。人間とはいえ、怪我の手当てをしてくれた恩人。私は、この者に愛する者を知らせ、さらに試練遂行の手助けをしたく思います。
どうぞ、シャコ貝をお開き下さい。映し出された者の舌、この短刀の届く所にあるなら、必ず切り取って差し出します。そうでなければ、この者の命を奪うのみ」
「試練の手助けとは前代未聞のこと。なれどお前の申し出にも一理はある。よいか、交わした約束、決して
かっと目を見開いた王に、姫は毅然と頷きました。
のぞきこんだ父の、深い碧色の瞳の奥には『それはお前ではない。そうなのだろう』
問いかけるような悲しい光が浮かんでいるようでした。
「では、そのように」
低く唸った王が矛を振ると、姫と青年の乗った鯨の背から、潮が高く吹き上げられ始めました。
「王の前に貝を!」
隊長の合図に、海中に浸していたシャコ貝が引き上げられ、兵士らの腕に高く掲げられました。
しぶきを受けたシャコ貝が、ゆっくりと開いていきました。その内側からは微かな蒸気が立ち登り、様々な色彩を生じながら水煙の中に伸びていきました。
やがて、宙空にぼんやりと人の形が映し出されました。次第にはっきりとしていくその人は、きらめく金色の髪をした美しい海人の女性でした。
兵士らは、見てはならないもののように顔を背け、王は固く口を引きました。
「ああ…」
姫は安堵の息をもらしました。
『これでこの人は救われる。彼がシャコ貝に刻みつけたのは、私だった』
胸を焦がすような熱い思いに、舌を切ることへの怖れは全く感じませんでした。手にした短刀をしっかりと握り返しました。
「違う!」
青年が叫び、姫の腕を強く押さえました。
「確かに僕は君を思った。でも違うんだ」
「その貝は、偽りを映すことはない。お前は人間でありながら、海人の女を愛したのだ」
舟籠の端に歩んだ王が、矛の背を激しく青年の肩に振り落としましたが、青年は姫の腕を放そうとはしませんでした。
「お放し下さい。これが、あなたの命を救うただ一つの方法なのです」
姫は青年に懇願しました。
「君…」
王に打たれても放れなかった青年の手が、
「私は舌を切り、王に捧げます」
姫は短刀を自分の口元に運ぼうとしました。
ですが、腕はまるで他人のもののように動きませんでした。それどころか、意思に反して高く掲げられていったのです。
「あっ」
いつしか、姫の身体からは淡い光が滲み出ていました。膨れながら、大きな人の形となっていきます。そして突然、短刀が
一体、何が起こったというのでしょう。
短刀を落とした姫はもちろんのこと、海の領域のあらゆる現象を知り尽くしている王でさえ、見当がつかないようでした。
そして・・
辺りには、音というものが消えていました。
岸を打つ波も、耳をなでる風のささやきも聞こえません。これまで休むことなく続いていた海人たちの忘れ歌も、顔を見合わせて話そうとするごく近くの者の声も聞こえなくなっています。物は動いているのに音は聞こえない、真空と同じ状態がそこにありました。
目を見張った王の前に、淡く光りながら揺れる人の形が手を伸ばしていました。眩しく輝くごく小さな粒を差し出そうとしています。
「僕は、愛する女性の瞳の奥に見たのです。言い尽くすことのできない美しい空と海を」
青年が発しました。その言葉は、音をなくした世界に響くただ一つの調べのように、居合わせる皆の耳に届きました。
「僕は一人の女性を愛している。しかし、外見の美しさとからではない。その女性の内側で豊かに息づいているものを愛しているのです。それは、これまでに出会ったどの
「もしや・・」
手に乗せられた輝きを口元によせた王が、皆に聞こえる声を発しました。
「やはり、これを介せば音は生じる。人間よ、お前が見たのは、我が娘が心に育んできた自然の息吹そのもの。それが、かのように姿を形取り、舌を切って差し出したのだ。
そして音の消えたこの世界で、お前が声を発することが出来るのは、その胸の内に、深く刻まれた自然が脈々と息づいているからに他ならない」
王の手に乗せられた輝き…それは愛し合う二人が生み出した自然界の舌とでも言えるものだったのでしょう。それが切られたために、辺りには音が消えてしまったのです。
「
王は玉座に戻り、三つ又の矛を高々と掲げました。
「試練は果たされたのだ!」
厳かに宣言した王は、片手に握っていた輝く粒を宙に放ちました。
それは、揺れ動く人の形の周囲を漂い、やがて跡形もなく消えていきました。
波がさざめき始めました。耳をなでる風のささやきが、海人たちの歌声を運んできています。
「儂はここでの役割を終えた。姫よ、人智を超えた大いなるものに見守られているお前とその人間との関わり。我らの掟は、もはや口を挟めるものではない」
王は宮殿の外では見せたことのない屈託のない笑顔を、姫に向けました。
「お父上、私はこれから何をすれば」
「お前はその者とともに、我らの掟の内と外を歩み、間に橋を架けることに成功した。そのような者に、父としても、王としても、かける言葉はない。自らの意志により為すべきことを決めるがよい」
厳しくも、温もりに満ちた王の言葉に、姫は
渦を巻きながら沈み始めた王の舟籠を後に、姫は青年を岸辺まで送りとどけました。
「君は、王と一緒に帰らないのかい」
瞳をのぞきこみながら青年が尋ねました。
「一緒ではありませんが私は帰ります。私は海人、その王族の者としての勤めが待っております」
いつしか、海人たちの歌声は聞こえなくなっていました。四方に散っていく鯨たちの鳴き声が、遠く近くに響いています。島のあちこちで、ぼうっとしていた人間が首をかしげながら動き始めています。
『愛しい貴方、今は、貴方にどのような言葉をかけてよいのかわからない。ささやかな別れの言葉さえも浮かんでこない』
姫は青年に一度振り返り、暗い海に身を躍らせました。
「僕はいつでも君を待っている。朝日がさしこむ あの磯辺で」
月の光を織り込んだ波の間に、青年の声が小さくこだましました。
了
嵐…そして愛:人魚と青年医師の物語 @tnozu
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