第3話 掟
「これで宮殿に帰ることができる。お父上をはじめ、宮殿の皆には、どれほどの心配をかけてしまったことか。でも、すぐには戻れない」
姫は明日の朝までは、この島にいることにしました。青年の記憶が本当に消えているかを確かめてから出立しようとしたのです。
『けど、それだけが明日まで残る理由かしら。私はあの人に期待しているのでは』
それは胸を灼く禁断の自問でした。
「
海人の姫は首を振りながら、朝日をまぶして煌めく海に身を躍らせました。皮膚の痛みを感じるほどに速く泳ぎ、時に空中に跳び上がり、全身に風の息吹を感じました。
沖合の海底に近い所を泳いでいた時、列を組んで向かってくる数十人もの海人と鉢合わせました。鋭いヤスを握った屈強な男の兵士たちでした。
・・姫、ご無事でありましたか・・
そのうちの一人、
続けて海中で会話が出来るように、自分の頬を姫の頬にそっと寄せました。
「北方からのお帰りが、あまりに遅いので心配していたところ、付き添いの鯨がやっと宮殿に到着しました。なんでも姫様とはぐれてしまい、ずっと探していたが見つからなかったとの事。それで王の命を受けて、この海域に参ったところでございます」
「お騒がせしました」
姫は丁寧に言いました。
「それで、あの鯨には迷惑は及んでいませんか」
「はっは、あれは王の信頼厚きもの。日は流れても、あなた様がご無事にお帰りになられればお咎めはないと思います。ただ今は、あまりの疲れに宮殿の庭園で高いびきをかいて眠り続けております」
隊長は陽気に笑いながら答えました。
『疲れを知らないはずの大鯨が、ずっと眠っているなど・・』
姫は、改めて自分がしたことの罪の大きさを知りました。そして二度とふざけた行いをしてはいけないと心に誓いました。
兵士らはすぐにでも姫を連れ帰るつもりでしたが、事情を聞いて納得し、一日だけ待つことに同意しました。
「もしその人間の心に、あなた様のお姿が刻まれていても、心配はご無用。我らの歌声も加えれば、波間に漂うクラゲと同じ。記憶は透けて、ただ日々の営みに心を揺らすこととなりましょう」
力強い口調で隊長は言いました。
次の日の夜明け前のこと。
沖合から港を眺めている姫の目に、あの青年が、家々の間の小道から歩み出てくるのが見えました。
「あの人間ですか?」
『どうか、磯辺には行かないで』
隊長の問いかけに、人魚はうなずきながら祈りました。
青年はしかし、姫の心に秘められた何かに応じるように磯辺へと向かったのです。
その手には、いつもの仕事用のバッグは握られてはいませんでした。代わりに握っていたのは透明な袋。姫が好んで食べていたオレンジという果物が、五つばかり入っているようです。
海人たちは波の間に隠れながら、青年の後を追いました。
磯辺に着いた青年は、探しものをするようにあちこちに目を向けました。
〔君、僕だよ。出ておいで〕
時折、手を口に当てて呼んでいます。
「あの者は、あなたを探しています」
そう言った隊長は、姫の同意を得るまでもなく兵士らに命じました。
「皆よ、うたうのだ。我ら海人の記憶を人間より消しさる忘れ歌を!」
すぐにも高く伸びやかな歌声が、波の上を走っていきました。
もちろん、姫もうたいました。数十人もの美しい歌声は、鳥たちの
いつもなら用を無くしたように、港にもどる青年でした。
ですが、何故か今日は、岩の上に凍りついたように立ったままでした。
姫はその前に泳いでいきました。忘れ歌が聞こえているなら姿は見えないはずです。
〔君・・〕
青年の視線は、どこか宙に注がれていました。
〔君の姿は見えない。でも、夢に現れる君は確かにここにいる。君はもはや、僕の手当てを必要とはしていない。でもこの体は、ここに来るように突き動かされた!〕
『だめ。夢は実在しないもの。だから私はここにはいないのよ』
姫は心の内で叫びました。
「姫様、そこをお
歌をやめた隊長が低く言いました。
「これほどの人数でうたっても効果はない。その人間の心には、姫様のことが忘れがたく刻まれております。ならば、命を奪わなければなりません」
振り返って見た隊長の顔は、厳めしく変わっていました。
兵士らは忘れ歌を口ずさみ続けながらも、鋭いヤスを後ろに引いて構えていました。青年との距離は、ヤスの長さの三倍ほどもありません。宙を切る飛び魚さえも仕留める兵士達です。放たれたヤスは確実に青年の命を奪うことでしょう。
「我らの姿を心に刻んだ人間は、そのことを仲間に吹聴し、やがて大人数を伴なって害を及ぼそうとする。ですからにその命を奪う。それが我らの掟であります」
「お聞きなさい」
隊長の
「姿を見られたのは私。忘れられることがないのなら、命を奪う役目を第一に担うのはこの私。そなたらではない!」
もちろん姫は掟のことを知っていました。だからこそ、青年の記憶を確かめようと出立を遅らせていたのです。
『でも…私の心の内で、忘れてほしくないという思いも芽生えてしまっている。今、この人から聞いた言葉ではっきりした。私は、胸の高まりを感じてしまった』
「では、この者の命、私が手にかけます」
波の上に伸び上がった姫は、青年の首に腕を巻きつけて海中に引き込みました。
『この人に、なんとしても生きていてほしい。たとえ、それが掟を破ることであっても』
片腕に抱いている青年の顔が、苦しそうに歪みはじめました。ですが暴れることはなく、その目は、しっかりと姫を見つめていました。
「あれほどに強い歌を聞いたばかりなのに、私の顔が見えるの?」
「ああ、僕には君が見え・・」
頬を寄せて話した姫に、激しく泡を吐き出しながら青年が言いました。
「首飾りが触れてから・・」
突然の出来事でした。青年は人魚の言葉がわかるようになっていたのです。
『首飾り・・』
青年の顔との間に挟んでいる貝の硬さに姫ははっと気がつきました。
『理由はこのサクラ貝』
淡い桃色をした貝の殻は、表面の膜が薄くはがれる時、間近で話される様々な言葉を、美しい波模様に刻みつけると言われています。首飾りについた貝は、姫の言葉はもちろん、青年の言葉も刻みつけていたのです。
おそらくはオレンジの皮を切る際についた酸が、貝の皮膜を溶かしたのでしょう。そしてこの貝を介して、姫と青年の言葉は響き合い、伝わることができたのです。
「あなたは、私たちと話ができる!」
不意にひらめいた姫は、青年に首飾りの紐を掛けかえながら言いました。
「優しい人。どうか叫んでください、試練をと」
姫と一緒に海面に浮かび上がった青年の前には、硬い表情をした兵士らが並んでいました。
「たとえ
ヤスの切っ先がきらりと光りました。
「試練を!」
青年は喘ぎながら叫びました。
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