第2話 忘れ歌

重なり合う鳥のさえずりが、耳元をくすぐっていました。

岩に砕ける波音とともに、飛沫しぶきが心地よく降り注いでいます。


『日が変わっても私は生きている』

海人の姫は、嵐の去った翌朝の陽ざしに瞼を開きました。気を失っている間に人間達のとりこになってはいまいかという一抹の不安を抱きながら・・

「ここは?」

首を起こし、辺りを見回して驚きました。


そこはうら寂しい磯辺でした。

海に向かって、大小様々な岩が波に洗われながら顔をのぞかせています。

背後には崖がそびえ、その裾から突堤のように伸びる一枚岩に、姫は横になっていました。丁度、中央部分がくぼみ、半身が乾かない程度に水が溜まっています。大潮の時期の満潮の頃でしたが、海面は岩の肘ほど下で揺れていました。


「私はどうしてここに」

昨日いたのは港近くの岩場でした。自力で場所を移動した覚えはありません。それに負傷した者を人間の目に付くおそれのある陸上に置いておくなど、同類の海人によるものでもありません。

「私は人間によってここに運ばれ、手当を受けたのだ」

痛々しく折れていた尾は、ベルトの付いた板にしっかりと固定されていました。


〔やあ、起きたんだね〕

明るい声が投げられました。振り返れば、岩々を洗う波を避けながら、昨日の青年がやってきていました。手には黒いバッグを提げています。


「あなたは私のことを忘れていたはず。なのに、なぜここに?」

相手の言葉がわかるのは、人間の代表者との協議のために言葉を学んだためです。一方、深海にある特殊な雲母で作られた音の変換器がなければ、こちらの声も言葉も人間には伝わりません。分かっていることでしたが、姫は傍らに座った青年に問いかけました。


〔何か話しているみたいだけど、君の声は風の囁きのようにしか聞こえないんだ〕

熱心に聞き耳を立てながらも青年は首を振りました。

[それでと・・、少しだけチクッとするよ]

加えて言いながら、バッグから取り出した透明な筒を姫の腕に当てました。

「!」

骨貝を指に刺した時のような鋭い痛みが走りました。

姫は思わず腕を引こうとしましたが、しっかりと押さえる力は意外にも強いものでした。


〔これは、怪我をした人が、熱を出さないための薬だよ。僕はね・・〕

瞳をのぞきこみながら青年は語りました。

青年は、島の診療所という所で、負傷したり、病にかかった者の手当てをする医師という仕事をしているとのことでした。昨日は、朦朧もうろうとした頭で診療所に帰っていったのですが、今朝、夜明け前に目が覚めてしまったそうです。


〔君のことは覚えていなかったんだ。けど、頭のどこかで声が聞こえた、【患者が浜辺で待ってる】って。それで体が勝手に動いてね。浜辺で君を発見した時は、ほんとびっくりしたよ。それで簡単な手当てをして、島の人が来ないこの磯辺に運んできたんだ〕


姫は胸を撫で下ろしました。自分のことは他の人間には知られていないのです。

「ありがとう、優しい人。手当ての御礼に伴わせるのは気が引けますが、何よりも私は、あなたの心に刻まれてはいけない者」

そっと手を合わせて頭を下げ、再び忘れ歌を口ずさみ始めました。


〔なんだろう、この不思議な感じは・・〕

青年の目は、捉えるものがなくなったかのように宙をさまよい始めました。やがて、ふらりと立ち上がると、その場を離れていきました。



陽は高く昇り、じわじわと喉が渇いてきました。

北の半球では冬にさしかかっていましたが、南に下った所にあるこの島には寒さはありませんでした。幸いにも飛沫のかかる体は乾くことはありませんでしたが、さすがに海の水で喉を潤すわけにはいきませんでした。


「何か水気のあるものを食べなければ。体の内が干上がってしまう」

人魚は青年が置いていった地上の果物に手を伸ばしてみました。

首にかけた桜貝の殻で朱色の皮を切ると、甘酸っぱい香りが辺りに漂いました。

初めての味わいに、口元は小さく歪みましたが、やがて滋養に富んだ牡蛎かきを食べた時のように、体中に水分と力が巡りはじめました。


「陸に住むあの人は、このようなものを食べているのだわ」

知らぬ間に青年の笑顔が思い浮かびました。

「だめ、このようなことを考えては。一刻も早くここを離れなければ・・」

姫は尾に少し力を入れてみましたが、途端に激痛が走りました。


海面を叩いて、救助を求める信号を送れば、付き添いの鯨や仲間たちを呼ぶこともできたでしょう。しかし、元はといえば自分自身の悪戯心が招いたことです。

統治者の娘として採るべき態度ではないかも知れませんが、むしろ、そうであるが故に、情けない姿のままで宮殿に帰ることはできませんでした。

「もう二日もすれば、尾の痛みは軽くなって、背と腹を動かして海中を進むことができるようになるわ」

姫はもう少しの回復をこの島で待つことにしました。


やがて空は赤がね色に染まり、降り落ちんばかりの星々が浮かびました。

島から吹きおろす風に眠りにつき、遠海の波のざわめきを運ぶ風に瞼を開ければ、東の空は、すでに青くにじみはじめていました。


目覚めた鳥たちが軽やかに鳴きはじめた頃、岩を蹴る足音が聞こえました。

近づく人間が、あの青年のように優しいとは限りません。忘れ歌にぼんやりするまえに、命を奪う恐ろしい武器を使うかもしれません。

姫は泳げないながらも、すぐに海中に身を沈めることができるように、岩床の縁に片手をかけました。


〔やっ〕

目の前に現れたのは、黒いバッグを提げたあの青年でした。

〔君は・・その尾は・・〕

初めて海人というしゅを見たかのように息を止めて驚いています。確かにこれまでに会ったことは忘れているようです。


〔【磯辺の患者は、まだ僕を必要としている】頭のどこかで声が聞こえたんだ〕

青年は言いました。どうやら青年の心に刻まれている医師というものの情熱が、こちらに足を向けさせているようでした。


「優しく高潔なる心の人、どうか、かすみの彼方に私の存在を散らして下さい」

姫は心を痛めながらも、再度の手当てをしてくれた青年に忘れ歌を聞かせました。

しかし・・次の日も、そして次の日も青年はやってきたのです。


「私が怪我から回復し、医師と患者という関係がなくならなければ、この人の記憶から私が消えることはないのだわ」

姫は帰路につくことを遅らさざるを得ませんでした。



二十日ほど過ぎた頃でしょうか、とうとう姫の尾を固定していた板がはずされました。

海中にすべり降りた姫は、ぎこちなく尾鰭を振ってみました。ゆっくりと、次第に力を込めて・・。

「ああ、私は生きている」

久しぶりの水を切る感覚は、あらためて命の在ることのありがたみと、自分が海に住まう者であることを実感させました。


〔いつも初めて会うような君。もう君は、僕の手当てを必要としていないようだね〕

岸辺から見守る青年は、満面の笑みを浮かべて言いました。


『そう、これが本当のお別れです』

人魚は、波間から手を振りながら、歌を口ずさみ始めました。

当初は不完全な音調でしたが、今は、豊かな抑揚をつけてうたえるようになっていました。


・・さようなら・・

遠離っていく人影に、精一杯に感謝の気持ちを込めてうたいました。

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