嵐…そして愛:人魚と青年医師の物語

@tnozu

第1話 出会い

無数の黒雲が、数多あまたの獣のように鉛色の空を駆けていました。風が咆哮のように唸っています。灰色に濁った海は、獣たちの荒々しい息遣いそのままに狂おしく波をうねらせています。


「あれは・・」

盛り上がった波の頂きから掠れた声がもれました。


その声の主は若くて美しい女でした。暗くうねる波の原にぽつりと顔を出しています。金色の長い髪は、そこだけに陽が射しているかのように煌めいて流れています。透き通るような白い肌の半身は滑らかなうろこにおおわれ、桃色がかった尾鰭おひれが踊るように濁った水をかいています。


その女は海人かいじん・・人間が伝える伝承では”人魚”と呼ばれる者でありました。

そして彼女はまた、広大な海の世界をべる王の娘でもありました。今は、王の代行として、海人に理解を示す人間の代表の館を訪れ、南の彼方の珊瑚礁帯にある海人の王国にもどる途中でした。


なにせ危険の多い海の旅です。王は最も信頼のおける大鯨を付き添わせていました。あらゆる海路を知り尽くした鯨のおかげで、海人の姫は全く順調に往路、復路の行程を進むことができていました。

しかし、順調さは時に退屈を生じるものです。それが災いを招いてしまったのです。

ずいぶん南に下ってきた所で、姫は悪戯心いたずらごころを起こしたのです。嵐に海が騒いでいるのを幸いに、付き添いの鯨をまいてしまったのです。そして姫という窮屈な衣を脱ぎ去り、近くにあっても遠い存在、”人間”の住んでいる島に近づき、ひとりの人間を遠くに眺めていたのです。


その透き通った海のような緑色の瞳には、港から突き出した長い堤が映っていました。波飛沫なみしぶきが洗う細い道を、人間の男が、風にあおられながらとつとつと歩んでいます。


『何をするつもりかしら。まさか海に身を投げるのでは』

人間は、自ら命を海に捨てることがあると聞いています。別の世界の者がする事とはいえ、生けるもの総てのものの母なる海に死を求めるのはとても悲しいことです。姫はじっと見守りました。


堤の先まで歩みよった人間は屈みこみ、そこにあった灰色の塊をそっと抱き上げました。小さな塊は幼気いたいけな四脚を力なく動かしています。

『あれは、きっとネコという獣。あの人は、堤に彷徨さまよっていた小さな命を助けにきたのだわ』

姫はほっと胸を撫で下ろし、人間の優しい行いに心を温めました。

「いいえ、いけない」

もう少し見つめていたいとも思いましたが、そのような気持ちを抱いたことを非難するように首を振りました。

「私は海人。我らとの共存協定を結んでいる一部の人間を除いて、人間という者に興味を持ってはいけない。もし見つかるようなことがあれば、大きな災いを仲間たちに招くことになる」

小さくつぶやき、波の下にもぐろうとしました。ですがその時、瞳の端にあった人影が、ふいと消えてしまいました。人間は、堤を襲った高波にさらわれてしまったのです。


『優しい心をもった者が、その優しさのために命を無くしてしまう』


姫は若くて純粋でした。

尊い命が目の前で消えていくのを捨てておくことなどできませんでした。尾鰭をひらめかせて海中にもぐり、堤に向かいました。


濁った海中で、人間はもだえるように足を動かしていました。激しい流れは、容赦なく、彼を暗い海底に引き込んでいきます。


『もう少し、もう少し』

姫は折りのよい時に、救いの手を伸ばそうと待っていましたが、はたとまずいことに気がつきました。

人間を助けることは容易たやすいことです。溺れて気を失なった所を見計らい、岸辺に連れていけばよいのです。そうすれば姿を見られることはありません。しかし、彼の腕に抱かれている小さな命は、それまではもたないのです。


『大丈夫。音調はまだ不完全なれど、忘れ歌をうたえば』

そう考えた姫は、自分よりも大きな体に泳ぎ寄り、腕を伸ばして脇の下を引っかけると、なだらかな浅瀬に向かって水を切りました。

人間の足が砂地に触れたところで体を離し、そこから少し遠ざかった崖下の岩場に身を寄せました。


『さあ、お聞きなさい』

荒波のざわめきのなか、姫は高く響く歌を口ずさみ始めました。


太古の海人の言葉を歌詞とする美しい調べ・・人間の心をたゆめる忘れ歌です。

これを耳にした人間は、ぼうっとしてしまい、その前後にあったことを忘れてしまうのです。かの人間は、なぜ自分が助かったのか、海に落ちたことさえも忘れてしまうことでしょう。

 

助けた人間は、飲み込んだ海水にむせながらも、沖に引き戻そうとする波を切って岸に歩いていきました。改めて見れば、それは細い体つきの色の白い青年でした。噂に聞いていた浅黒さや荒々しさは何処にもありませんでした。


姫は音調に気を配りながら、精一杯に声を張って歌を紡ぎ出していました。

そのために辺りに注意を払えていませんでした。頭上では崖に生え伸びた松の木が、不自然に傾きかけていたというのに。


突然、激しい音が響きました。ついで気を失うほどの痛みが尾に走りました。


「ああっ・・」

洩れ出てしまった悲鳴とともに横を見れば、一抱えもある岩が、尾の上に乗っていました。どけようにも力が入りません。


〔君、大丈夫か!〕

鋭い声がかけられました。いつの間にか青年が駆け寄ってきていました。


〔さっき僕は海に落ちた。もしや、君が助けてくれたのでは〕

抱きしめていた子猫を服の胸元に入れ、青年は渾身の力を込めて大岩を海に押し出しました。

幸か不幸か、忘れ歌は、彼の心の自由を十分には奪ってはいなかったのです。


岩が海に落とされた時、青年の目が大きく見開かれました。痛々しく折れた姫の尾を見つめています。

〔君はいったい・・〕


『だめ。この姿を心に刻んでは』

姫は必死に歌を紡ぎ続けました。


のぞきこんでいた顔が張りをなくしていきました。やがて青年は、ぼうっとした表情で立ち上がり歩き始めました。


『それでいいのよ』

遠ざかる人影を見送りながら、姫は瞼を閉じました。

救った命の温かさが、海綿の衣のように痛みを覆ってくれていました。





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