3. k-ai sui ~en~
波岸水人と長谷川燐華。
兄達とは四歳差である二人。高校一年生の春から交際。出会ったのは、兄達よりも早い、六歳の時。小学一年生の夏で、場所は燐華宅近所にある公園だった。
苦手な男の子だらけの公園に入れず、外から園内をじっと眺めていた燐華。そんな彼女に気づいた水人が、笑顔で手を引き、園内の花壇のそばで一緒に遊んだのがきっかけである。
この日以来、二人は時折公園で遊ぶようになり、十歳頃には、人見知りの燐華が素を出せるほどに、彼らの仲は縮まっていた。
そして小学六年生頃からは、水人が燐華のアパートに顔を出すことが日常と化したわけで。
アパートでは、漫画や動画鑑賞、宿題に化粧実験などをして過ごし、更には水人が料理をして、家族ぐるみで夕食までいただくようになった。
中学からは通う学校も同じになり、共に過ごす時間は倍増。それでも仲違いせずに、主に水人が燐華の手を離さない形で、二人は共に在り続けた。
高校進学の際も、それは変わることなく。
燐華が好みの制服目当てで、私立の中堅進学校を選んだのに対し、水人は、燐華といたいがために、兄と同じ高校に余裕で入れたにも関わらず、彼女と同じ高校、同じ学科に、学費免除の特待生として入学した。
交際のきっかけとなったのは、二人が高校に入学して間もない四月、馴染みの公園での出来事。
燐華の誕生日に、水人が言ったある言葉だった。
「春がもうひとつおめでとうって」
「は?」
「花には水がないと」
分かりづらい表現であったが、それが彼からの告白であることを彼女は理解した。
肝心な部分でひどく言葉足らずになるところは、出会った頃からの、水人の癖だった。
「あんな女のどこがいいんだ。あんなんお前に災難しかもたらさんぞ」
燐華のことを、水人の兄、海人はそう評していたが、水人にとっては、唯一無二の存在だった。そして燐華にとってもまた、直接言葉にはできずとも、水人はそんな存在となっていた。
しかし、燐華が短大を一年で中退したことを機に、二人の関係もまた、変わっていく。
学生でなくなった上、中退で、理想的社会のレールからも外れた燐華。
特技も学歴もない。容姿も秀でていない。取り柄は辛うじて若さだけ。だがそんな唯一の
けれどもう、それにしか縋れなくて。
積もっていくは
カスだけ。
しだいに燐華は、“年をとること”に対して、“より強大で、激しい恐怖”に、襲われるようになっていった。
彼女は、“老いていく自分の姿を水人に見られたくない、彼にとっての自分は、いつまでも咲きたての花でなくてはならない”――という切望から、家庭の金銭事情なども顧みず、アンチエイジングを売りにしたあらゆるぼったくり商品にも、無謀に手を出すようになっていく。
食生活においても、水人や、仕事で多忙な兄のこともお構いなしに条件を増やし、“思い通りに飲食できないストレス”や、“思い通りの食事を用意してもらえないストレス”も、水人と兄にぶつけるようになっていった。
されど、小川の激流の如く、僅かな余地すらなしに、容赦なく削れ去っていってしまう時間。
どんなに抗おうと避けられぬ、肉体、容姿の変化。
不安や恐怖、失望に絶望、許容し難い負の感情だけが日に日に大きくなっていった彼女は、追い詰められた結果、とうとう考えついてしまう。
あまりにも身勝手で、浅はかな願いを。
燐華二十一歳、水人はまだ二十歳。
彼の誕生日が近い夏の日の午後。二人でよく遊んだ公園に、燐華は彼を呼び出した。
パートや派遣を短期間で転々とし、履歴書の汚点も更新し続ける燐華。かたや、有名大学の現役学生で、大手企業からも既に内定をもらっている、エリート街道まっしぐらの水人。
彼はとうに燐華にとって、別世界の住人、不釣り合いの過ぎた遠い存在になっていた。そしてこれからは、もっとそうなっていく。
自分はもう枯れてくだけだが、彼は、瑞々しい、未来溢れる希望の青葉。
「待たせてごめん」そう生き生きとした表情で現れた水人が、あまりに眩しく、雲の上すぎて。
妬ましさも届かない、遥か高みから打ちつけられる光の雨は、あまりに痛くて。
鬱々とした影なる感情に、また首をしめられた燐華は、わざと彼から距離をとり、視線を外した。
「みたよメール。『お願いがある』って、どうしたの?」
「…………」
「燐華?」
「水人」
“もうだめ”
「水人。私、辛いの。
もう、生きてることが、辛くて仕方ない。
死にたいの」
青空の下、彼女は告げた。
「あなたがいることが、余計に、そう思わせる」
「燐華、僕は」
「聞いて!」
おさえられない震え。
ゆらめく囲いの若葉たち。
「あなたとはずっと綺麗なまま愛し合っていたいの。だから、選んでちょうだい。
私が死ぬか、あなたが消えるか。
私、あなたがいたら生きていけそうにないの」
水人とは違い、何も持っていない。
その上、ただ醜く、若さまで失っていく自分を、朽ちてくだけの自分を、水人にはみせられない。
捨てられることが目に見えてるから。
“もうぎりぎりなの。
でも過去には戻れない。
だからせめて、少しでも若い今のうちに、私を消して。”
落日。蒸し暑さ立ち込める、狭いアパートの一室。
ぼやけた自身の影を目に、一人立ちすくむ水人。
彼は机の引き出しから、いつでも見れるようにしてあるアルバムを取り出し、開いた。
数少ない家族全員の写真。
自分を抱いた兄の後ろで笑う、物心つく前に亡くなった父と、今もどこかで生きている母の姿。
“ ごめん兄さん……。
それでも僕は──……”
数日後、二十一歳の誕生日を迎える前に、水人は亡くなった。
海中に浸かっているところをサーファーに救助され、病院に運ばれたが、ほどなくして息を引き取る。
「なんでも……する…よ」
水人が亡くなる直前に残した言葉。
看取った兄、海人は、疑いもせず確信した。
長谷川燐華、あの女が水人を殺したのだと。
そして兄は、弟のために、決心する。
〝刑務所だろうが奈落だろうが、どこに行っても構わない。俺ももう、死んだも同然なのだから。
あの女を殺して、俺も死んでやる。〟
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