169 夕暮れの調べ
グレースたちがウースに到着した日の午後、イドエでは演目表を巡ってちょっとした騒ぎが起こっていた。
それは、シンが10月20日に予定されている公演のために手書きで作成し、広報にチェックを頼んだ演目表が原因だった。マテオが複写した仮の演目表には、上演する演目をはじめ、出演者や裏方の紹介に加え、イドエの服飾と演劇、小麦やハーブ栽培の歴史が記されていた。さらに、ここでしか味わえない芋天や天ぷらといった食べ物の紹介、ここでしか買えない下着の説明、販売場所も書き添えられていた。村内のマップも含まれていたが、それは村全体ではなく、必要な部分だけを示したものだった。
これを目にした広報の者たちは、細部まで丁寧に記された演目表に、思わず感心の声を上げた。
「これは…… 実に分かりやすい」
「そうだの。よくできておるの」
「演劇だけではなく、服飾の歴史まで……」
「イドエに誤った認識を持っている人は多い。これを見てくれれば少しでも……」
「かつて村を訪れた名優のことまでも……」
「なるほど、当日は馬車を改造したものを、ここに配置するのか……」
「これを見ればの、迷う事なくいけるの」
「おそらくの、店と連携しての、混雑を最小にするよう考えておるんだの」
「この演目表を叩き台にしろとシン君は言っておったがの、完璧だと思うがの」
「えぇ、ですが、三つほど気になるところが……」
「うーむ、確かにの……」
見た者たちが違和感を覚えた三つのうち一つ目は、演目の構成においてであった。総監督ガーシュウィンの名を冠した演劇がありながら、まだ世に知られていないファーストアイドルの公演が最終演目として配されていたのである。そして、そこには、監督としてユウ・ウースの名が記されていた。
「確かにファーストアイドルはユウ君が手掛けたものなので、名が記されているのは問題ないにしても、最終演目とは……」
「そうだの…… アイドルというのはの、極一部の者しか関わってないからの。ほとんどの者たちが見たこと無いからの、不安は残るの……」
「確かにの……」
「演劇への情熱と真摯な姿勢で知られるガーシュウィンさんがこれを目にしたら、激怒してしまうのでは……」
「そうなればの、あの名声を借りることもの、今の協力も白紙に戻してしまうかもしれないの」
「いや、それは当然だからの、シン君が先にガーシュウィンさんの許可を取っておると考えるべきだの」
「そうですよね。そもそもガーシュウィンさんがこの村に協力してくれているのがその証ですよ。本来なら手助けすらしてくれないでしょう」
だが、この演目表を目にしたのは、この時点では、複写したマテオたちと広報の者たちだけで、シンはまだ、ガーシュウィンに見せていなかった。
「例え許可をとっているとしてもの、
「そうですね……」
この場ではガーシュウィンやナナに直接聞くこともできず、広報の一人は話を先に進めた。
「あと二つはどこだの?」
「はい、あとはですね。一つは、シン君の名前が何処にもない事です」
そう言われると、みんなは改めて演目表に目を通す。
「本当だの。何処にもないの」
「えぇ。シン君の意向でピカワン君たちは単独公演ではなく演劇の一部になりましたが、その演出欄、それに下着の制作欄にも見当らないんです」
広報の一人が眉をひそめながらそう口にし、少し間を置いて続けた。
「そして最後の一つは…… 下着の制作欄に書かれているデザイナーの名前なのですが……」
その言葉に、全員の視線が演目表のその一文へと集中した。
その頃シンは、ガーシュウィンのところを訪ねていた。
「すみません、お邪魔します」
静かな声でシンが挨拶すると、ガーシュウィンは一瞬だけ視線を向けたものの、すぐに仮設舞台へと目を戻した。舞台上では、ロペスを中心とした演劇経験者たちが真剣な面持ちで稽古に励んでいた。シンは練習の妨げにならないよう、一定の距離を保ちながら、声がかかるのを待った。
「きみ」
ガーシュウィンは時折、演出のネル・フラソと小声で言葉を交わしながら、鋭い指摘を送っていた。その眼差しには、かつての鋭さが戻っているようであった。
やがて休憩時間に入り、シンに声がかかる。
「何の用だね?」
「仮の演目表に目を通して頂きたくて」
差し出された演目表を受け取ったガーシュウィンは、時間をかけてじっくりと目を通す。
「シン君、よければ私にも」
「もちろんです。どうぞ」
シンはフラソやロペスたちにも演目表を手渡した。彼らは皆、最終演目のファーストアイドルの箇所で目を止める。
最終演目はファーストアイドル……
重たい空気が場内に漂い、フラソは一瞬だけガーシュウィンに視線を向け、表情をうかがった。
しばらくの沈黙の後、ガーシュウィンがゆっくりとシンに向き直った。その仕草に、フラソたちの体が一瞬こわばる。
「ここの部分だが……」
「はい」
それは、演目の説明について、役者の数が足りないために、従来の芝居とは
「分かりました。直ぐ修正します」
そう言ったものの、シンはその場を動こうとしない。まるで誰かを待っているのかのように。
「そうだ……」
ガーシュウィンが何かを思い出したかのように口を開いた。
「はい」
再び場内に緊張が走り、フラソたちの視線がシンとガーシュウィンの二人に集中する。
「一つ頼みがある」
ガーシュウィンは静かに切り出した。
「なんでしょうか?」
「実は……」
ガーシュウィンが何かを言いかけたその時。
「すみません」
柔らかな声が静まり返った稽古場に響き渡り、村長のレティシアが現れた。張り詰めていた空気が途切れ、みんなの視線がレティシアに集中する。
「どうしました、村長さん?」
「あ、ご休憩中でしたか」
フラソが声をかけると、レティシアは少し慌てたように言葉を続けた。
「あの~、シンさんにここに来るように呼ばれてまして……」
レティシアはシンとガーシュウィンの様子を見て、話が終わるまで時間をやり過ごすことにした。
「あの~、フラソさん」
「はい」
「お邪魔でなければ、少し舞台を見せて頂いて宜しいでしょうか?」
「もちろんですよ。どうぞ、どうぞこちらへ」
フラソは仮設舞台にレティシアを案内した。
「うわ~、急扱えですけど、りっぱですね」
「はい。とても良い感じです。休憩は、あと10分ほどですので、もしお時間があるようでしたら、是非見学していってください」
「お忙しいところ誠に申し訳ありません」
レティシアは、懐かしさと期待の入り混じった柔らかな笑みを浮かべた。
「……」
言葉を途切らせたガーシュウィンは、シンではなく、舞台上でフラソと会話を交わすレティシアの佇まいを見つめ続けていた。
「確か演目は、糸紡ぎの歌だとお聞きしましたが」
レティシアは優しく微笑みながらフラソに尋ねた。
「はい。いくつかの候補の中から、この演目は服飾の古い歴史を題材としたものなので、この村に相応しいと思い、練習を重ねております。出演者の数に問題がありますので、私たちで脚本に手を加えましたが……」
「その工夫も楽しみにしております」
その言葉に、周囲の役者たちからも自然と笑みがこぼれる。
「そういえば村長さんは小さい頃、よく糸紡ぎの歌の演技をしていらっしゃいましたね」
思い出が蘇ったのか、フラソは優しく微笑む。
「プロダハウンでのお話ですよね? お恥ずかしいかぎりです」
「ははは、今でも昨日のように覚えております。あの頃イドエを訪れていた数々の名優と共に、私もこっそり覗いておりました。とてもお上手でしたよ」
レティシアは照れくさそうに笑みを浮かべながら俯いた。
「ロペス」
フラソはロペスの名を口にして、目配せをした。すると……
「今日も日が暮れるのが早くなったな。おや? この辺りから灯りが漏れてる。誰か、まだ仕事をしてるのか」
ロペスは演劇の一場面を演じ始めた。その懐かしい台詞を耳にしたレティシアは、かつての思い出が蘇ったように柔らかな笑みを浮かべ、自然と台詞を紡ぎ始める。
「ねえ、聞こえる? 糸車の音に混じって、誰かが歌ってるの。遠くで…… でも確かに」
レティシアが演技を始めた瞬間、ガーシュウィンは目を見開いて椅子から立ち上がった。
「ああ。祖母が紡いでた時も、こんな風に歌ってたな。手と足を動かすリズムが、自然と歌になるんだって」
「この村に来てから初めて知ったわ。糸を紡ぐ時の歌には、紡ぐ人の人生が織り込まれてるって。嬉しいこと、辛いこと、全部」
舞台に目を向けていたガーシュウィンは、ゆっくりとレティシアへと歩み寄る。シンはその様子を、薄っすらと意味ありげな笑みを浮かべながら見つめていた。
「……村長さん」
ガーシュウィンからの突然の呼びかけに、レティシアは我に返ったように動きを止めた。稽古の邪魔をしたと思い、慌てて仮設舞台を降りた。
「は、はい。す、すみません」
レティシアが申し訳なさそうに俯くと、ガーシュウィンは静かに尋ねた。
「あなたが小さい頃に演じていたのは、今演じたエレノアですか?」
「え、えぇ。そうですけど……」
ガーシュウィンの瞳が、かすかに輝きを増した。それは、思いがけない収穫に出会えたような、優しい光だった。
「他の台詞も、覚えておられますか?」
何かを察したフラソは、笑みを浮かべて頷いていた。
「……えぇ。全てというわけではありませんが……」
その言葉を待っていたかのように、ガーシュウィンが声を張り上げた。
「休憩は終わりだ!」
突然の号令であったが、役者たちは微笑みを交わしながら、自然と舞台へと向かった。
「では、もう一度舞台に立ってください」
「は、はい?」
予想外の展開に、レティシアの目が丸くなる。
「今しがた、ちょうどシン君にエレノア役を探してもらおうと相談するところでした」
「で、ですけど私は……」
戸惑いの色を隠せないレティシアに、シンが静かに近づく。
「村長さん」
「はい……」
「村のために、お願いします」
レティシアの立場では、そう頼まれれば、断れるはずもない。
「けど……」
呆然と立ち尽くすレティシアに、シンが手を差し伸べる。
……シンさん。
レティシアとシンは、静かに見つめ合っている。
「……分かりました。私の演技などが、お役に立てるかどうか分かりませんが…… でも、この村のためになるのであれば」
「では、どうぞ舞台へ」
差し伸べられた手に、レティシアは一瞬躊躇いながらも、そっと自分の手を重ねた。シンはその美しい手を優しく包み込むように、舞台までエスコートした。
一方、広報の者たちの視線は、全員が下着の制作欄に集中していた。そして、その中の一人からその名が読み上げられる。
「……ベルザ・ミトル」
その場は一瞬、水を打ったように静かになった。
「これはいったい、誰かの?」
「分かりません……」
「下着のデザインはの、シン君が中心になっていると聞いておったがの」
「はい、その認識で間違いはないはずです」
「これは…… 村人ではないの。初めて聞く名だの……」
「はい」
「もしかして、これがシン君のことかの?」
「かも知れませんが、女性の名前ですね……」
「うーむ……」
「シン君に確認した方が良いですね」
「そうだの……」
「今は野外劇場かの」
「私が見てきます」
「私はプロダハウンを見てきます」
二人はその場を離れて、シンを探しにいった。
なぜデザイナーに知らない人の名前が…… シン君は、いったい何を考えておるんかの……
二人の広報がシンを探しに外に出ると、手の空いている村人たちが、朽ちた廃材を運び、散らばったガラクタを拾い集めていた。石畳の古道が姿を現すにつれ、村の景色は少しずつ美しさを取り戻していった。古いものを片付けながら、彼らの表情は新しい何かを待ち望むように明るかった。
「……待ちきれないの、あなたの戻りを」
レティシアの演技が進むにつれ、粗末な舞台の空気は一変していた。それは、まるで別の人物が目の前に立っているかのような錯覚を皆に与えた。ガーシュウィンが思わず椅子から立ち上がり、フラソは目を見開いて息を呑んでいた。
「まさか、このような才能が埋もれていたとは……」
ガーシュウィンの声には、驚きと感動が混ざり合っていた。他の役者たちも深く頷き、シンは黙って見つめていたが、その表情には優しい笑みが浮かんでいた。
レティシアの演技は、単なる思い出の再現ではなかった。イドエでの様々な経験と、村を想う気持ちが重なり合い、演技に深みを湛えて観る者の心を揺さぶっていた。
「村長さん…… なんと素晴らしい」
舞台上でロペスが思わず声を漏らすと、周りからも絶賛の声が上がる。
「このような演技ができるなんて……」
フラソは目を輝かせながら、ガーシュウィンの方を振り返る。その時ガーシュウィンの表情には、思いがけない才能との出会いを喜ぶ輝きが浮かんでいた。
「ブラボー」
「素晴らしい!」
「凄い才能だ!」
周りからは次々と
同じ頃野外劇場では、ピカワンたちが熱のこもった練習を重ねていた。汗を輝かせながら、口から紡ぎ出されるリズムは、以前とは違う形を成していた。
「良い感じだの! リズムと音程をしっかりと意識しろの」
コリモンが真剣な面持ちで声を上げ、さらに檄が飛ぶ。
「三日後からの、ここで俳優の方々と合同練習がはじまるでの。その調子での、みんなを驚かせてやれの!」
ピカワンたちは頷き、練習に没頭した。リズムを刻む音が野外劇場に響き渡る。かつてはバラバラだった音が、今では見事に調和し、それぞれの個性を引き立て合っていた。
澄みきった青空の下、少年たちのビートは確かな手応えを感じていた。
その頃ユウは、スカートの長さでリンと揉めていた。
「だから言ってるっぺぇ! 短すぎるっペぇ!」
「うーん。これでも最初よりは、けっこう長くしたけど…… 膝下よりは、膝が見えている方が可愛いと思うんだ」
「可愛いかも知れないけど、嫌っぺぇ」
「だけどね、リンちゃん」
「なんだっぺぇ?」
「イプリモでは、これと同じぐらいのスカートを履いたウェイトレスさんとか、それに、セッティモにもいたよね?」
「よそはよそ! こっちはこっちっぺぇ!」
「うーん、だけど…… 申し訳ないけど、これ以上は譲れない」
「むっきぃー!」
衣装のデザインを巡る話し合いは、朝からずっと平行線が続いていた。
「クルクル~、クルは最初のでいいよー」
「だーめ、絶対駄目」
「よく聞くっぺぇ! あたしはシンみたいに脚が綺麗じゃねーっぺぇから無理っペぇ!」
「そ、そんなことないよ!」
「えっ?」
そ、そうっぺかな……
「絶対にみんな似合うから! 僕を信じて!」
ここはみんなじゃなくて、あたしを褒めるところっペぇ…… それにしても、アイドルのことになると、ほんと人が変わるっペぇーね。頑固で、まるで別人っぺぇ……
「あと、お腹か肩、どちらか選んで欲しい」
ユウがデザインした衣装は肩もお腹も露出するもので、少女たちからの意見を受けて話し合った結果、どちらか一方だけを見せることで折り合いをつけようとしていた。
「だからー、両方無理に決まってるっペぇ!」
「そんなこと言わないで、これを見て」
ユウはトルソーに着せている衣装の肩とお腹の部分を紙で隠した。
「見た?」
「見てるっぺぇ……」
「この状態から紙を外してみると…… ね、お腹と肩が見えている方が、圧倒的に可愛いでしょ?」
「これはトルソーだからっぺぇ。あたしのお腹はポヨポヨしてるから、肉がはみ出るっペぇ」
「うーん、確かにそうだね……」
その言葉で、リンはショックをうける。
「なっ、ななななっ!?」
リンの体は、ブルブルと震えている。
「え、どうしたのリンちゃん?」
「そっ、そ、そこは嘘でもそんなことないって言うっペぇーよ!!」
そう言いながらリンは、怒りを我慢できずにユウの頭を叩いた。
「あいてっ。あっ、そうだね。ご、ごめんなさい。つい、うっかりほっ……」
「うっかりほって何だっペぇあぁぁぁぁ!?」
「クルクルクル~」
「ププゥ」
二人の言い争いを見て、クルとナナをはじめ、少女たちやロスたちはみんな笑っていた。
その日の夕暮れ時、イドエの空にはいつもより柔らかな夕焼けが広がっていた。仮説舞台から漏れる稽古の音、野外劇場に響くリズム、プロダハウンでの笑い声。
そして……
「いやぁ!」
カンスの掛け声が夕空に響き渡り、剣が空を切る音が、いつもより鋭く響いていた。
なんだ、この変わりようは……
朝の稽古では、いつものように消極的だったカンスが、まるで別人のように変化していた。その目には普段見られない光が宿り、振るう剣には覚悟が込められていた。
僕は、僕は……
「はぁ!!」
必ずグリスンさんを殺害した犯人を探し出して仇を討つ! その為には、一日でも早く強く、もっともっと強くなるんだ!
放たれた渾身の一撃に、ヘルの表情が一瞬揺らぐ。
こいつ…… ちきしょー! シャリィ様の教えを受けたとたん調子こきやがってぇ!
それぞれの場所で、確かな手応えとともに、着実に準備は進んでいた。
ベリウス オタクとヤンキーが異世界に行くとだいたいこんな感じになった いすぱる @isuparu
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