160 忠誠と報恩


 夜明けの光がセッティモを照らし始めると、休んでいたソフォーが何処からともなく現れ、静かに定位置へ戻った。すると、昨夜も漂っていた不気味なイフトが、光に追いやられるかのように消えてゆく。

 宿から出てきたシャリィがソフォーに近づき革袋を差し出すと、ソフォーは無言のままそれを受け取った。


 それと同じ頃、窓から差し込む柔らかな日差しが、静寂に包まれた部屋を黄金色に染め上げていた。鳥のさえずりが遠くから聞こえ始め、新たな一日の訪れを告げている。ブラッズベリンは、その穏やかな光に目覚め、ゆっくりとまぶたを開いた。


 しかし、その安らぎは一瞬で消えてしまう。なぜなら、部屋の隅に何かの存在を感じたからだ。身体を起こしながら視線を向けると、そこには血に染まった戦衣カンフィニを纏ったレリスが、無言のまま椅子に腰かけていた。ブラッズベリンと視線を交わしても、レリスは黙ったままである。

  

「……聞こう」


 レリスは一瞬だけ俯き、そして再びブラッズベリンを見上げた。その仕草に、事態の深刻さを物語っている様に感じた。


「ロルガレが、逃亡いたしました」


 ブラッズベリンの鋭い眼差しが、レリスの顔に刻まれた傷跡に注がれる。その傷が語る物語を、彼は静かに読み取っていく。


「ロルガレと数名の隊員が、ミレス司祭と会談中の3名を拘束」


 その言葉を聞いたブラッズベリンの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「フッ」


 ミレス司祭を…… 


「阻止しようとしたミレス司祭のディースタを殺害」


 ほぅ……


「その後、ドンケカーマにて」


「拷問か?」


「はい。ミレス司祭は重傷、他3名は全員死亡しました」


 その言葉を聞いても、ブラッズベリンの表情は穏やかで、大きな変化はない。


「……レリス」


 名を口にした声には、わずかな感心の色が滲んでいた。


「はい」


「どうやって生き延びた?」


 その言葉に、レリスは笑みを浮かべる。


「はい。タナ司祭を伴っておりましたので」


 タナ司祭を?


「フフッ、フフフ」


 なるほど……


 ブラッズベリンの頭には、すでに事態の概要が描き出されていた。


「ロルガレの逃亡先に当ては?」


「今のところありません。ですが、種は蒔いておきましたので、必ず現れます」


「そうか。他には?」


「私は裁定にかけられるそうです」


 聖務評定か……


「分かった。後は私に任せて、呼ばれるまでの間休んでよい」


「はい。では、お言葉に甘えて失礼いたします」


 血に染まった戦衣カンフィニを纏い、去ってゆくレリスの背中を、ブラッズベリンは見つめていた。


 さて、今日は少々騒がしい一日になりそうだ。


 

 部屋に戻ったレリスは、極度の疲労感に襲われ、まるでドンケカーマに押し込まれた時の様な眩暈を感じる。


「……ふぅ」


 思わず声が漏れるような息を吐いたレリスが向かった先には、豪華な磨き上げられた石のバスタブが置かれていた。便利な魔法のあるこの世界でも、入浴という習慣が失われている訳ではない。  

 朝日が揺らめく湯気を美しく照らす部屋で、血に染まった戦衣カンフィニを、ゆっくりと脱ぎ始める。

 

「シュルル」


 素肌のまま鏡の前に立ったレリスは、自らの身体に沿って手をゆっくりとはわせてゆく。指先が触れるなめらかな曲線、花びらのように瑞々しい肌を確かめながら、左の胸で手を止める。


 少し大きくなってるけど、まだ硬い……


 まだ自分の胸が成長過程であると確信したレリスは、ふと、ロルガレに負わされた傷に視線を向ける。


 ……しばらくは、目立つわね。


 清らかな美しさと、その痕跡の対比に、複雑な表情を浮かべた。


 レリスはゆっくりとバスタブに近づき、その縁に手をかけ、静かに湯の中へと身を沈めていった。温かな湯が肌を包み込むと、レリスの唇から小さな溜息が漏れる。ロルガレとの戦いで蓄積した緊張が、湯と共に溶けていくかのようであった。


「スゥー」


 深く息を吸い、目を静かに閉じたレリスは、湯に全身を委ねる。重力から解放されたような浮遊感に包まれ、ゆったりと漂う水中で静かに目を開くと、水面を透かして差し込む朝日が、揺らめく金色の網目となって広がっていた。その幻想的な光景に、レリスの心は一瞬、全てのストレスから解き放たれたかのようだった。水面に顔を出したレリスの唇には、戦いの場で見せる冷徹な笑みとは全く異なる、純粋な喜びに満ちた微笑みが浮かんでいた。


「ふぅー」


 こんな朝早くからお湯を張ってくれた侍女トレッサに、お礼をしないとね。





 この数時間後、セッティモから遠く離れたイドエで、モリスの食堂に入って来たウィロは、シンを見て思わず足を止める。


「……戻って来てたの?」


 昼過ぎ頃に戻ると知らされていたウィロは、少し驚いた様子で尋ねた。


「はい」


「……それなら、ガーシュウィンあの人への食事は」


 そう言いかけたウィロに、シンは言葉を挟む。


「いえ、すみませんが、引き続きお願いできませんか?」


 シンの態度に違和感を覚えながらも、ウィロは黙って従う。


「……分かったわ」


 ウィロが食事を手に店を出るのと入れ替わるように、ヘルが姿を現した。


「ふぅあ~~、5時間ぐらい寝た寝た~」

 

 ヘルの姿を初めて見たジュリとモリスは、その鍛え上げられた大きな身体に驚きを隠せなかった。深夜の到着だったため、この瞬間が二人にとって初対面であった。


「わぁ~、大きいけど、お腹細~い」


 ジュリはヘルのスタイルの良さに目を奪われ、思わず声に出してしまう。


「あっ、ジュリちゃん、モリスさん。この人はヘルさんです。俺たちに雇われてくれた冒険者なんですよ」


「まー、そうなんですね」


 ヘルはボリボリと頭を掻きながら、豪快にドカっと音を立て、シンと同じテーブルの椅子に座り込んだ。


「着いたのが深夜だったので、そのままシャリィの部屋に泊まってもらいました」


 シンの言葉を聞いたヘルは、頭を掻いていた手がピタリと止まり、驚愕の表情を浮かべる。


 なっ、何~!? あの泊まった部屋が、シャリィ様の部屋だとぉ!?


「モリスさん。ヘルさんとあと一人増えますので、今日から部屋を二つお願いします」


「はい。分かりました」


 あの部屋がシャリィ様の…… それで今晩からあたしは別の部屋…… そして今はうるせぇカンスもいないとなれば…… それなら、メシ食ってる場合じゃない!

 

 座ったばかりのヘルは突然立ち上がり、泊まっていたシャリィの部屋へと急いで戻って行った。注文を取りに来ていたジュリが驚いてシンに尋ねる。


「……あの人、どうしちゃったの?」


「え~とあの~、さぁ……」 


 って、答えたものの、何となく分かるけどね……


 シンの予想通り、事実を知ってシャリィの部屋に戻ったヘルは、枕に顔を押し付けて深い深呼吸をしていた。


「スーーーーハーーーー」


 あ~、これがシャリィ様の匂い~って……


「あたしの匂いしかしないじゃねーか!?」


 怒ったヘルは枕を壁に投げつけた後、まるで犬の様に部屋中の匂いを嗅ぎ始める。 


「ちっ! 枕もシーツも既に交換されたあとって訳か!? 椅子からは木の匂いしかしないし。ちきしょー、せっかくのチャンスだったのにぃ~」


 鍛え上げられた大きな身体とは裏腹に、ヘルは子供のようにベッドの上でごろごろと転がり回る。


 けど…… ここは紛れもなくシャリィ様の部屋……


 シャリィへの想いが胸の内で膨らみ、ムラムラしたヘルの右手が、そっと股間へと伸びていった。




 さらに数時間後……


 酒の香りが漂っている部屋で、オスオたち数十人が床に横たわっていた。

 

 ……ん。もう朝かの……


 目を覚ましたオスオが上半身を起こすと、魚の群れのように身を寄せ合って眠る者たちの姿が目に入る。


「うーん…… 頭が痛いの……」


 水を求めて立ち上がったオスオの動きで、数人が目覚め始める。


「……あんた、起きな」

「むにゃむにゃ、かあちゃんのオッパイ……」

「寝ぼけて変なことを言うんじゃないよ!」


「バシッーーン!」


 マイジのビンタがダガフの頬に炸裂し、その大きな音で残りの全員が一斉に目を覚ます。


「フォワ!?」

「何の音だっペぇ?」

「水…… 水をくれっぺぇ」

「おらにもくれっぺぇ、口の中がガサガサしてるっぺぇーよ」

「調子こいて、の、飲み過ぎたっペぇ……」 


 目を覚まして起き上がる者たちの中には、ユウの姿もあった。


「うーん…… 今何時?」


 え、もう10時過ぎなの? 起きないと……

 

 ユウは頭を抱えながらゆっくりと身体を起こし、これほど酒を飲んだのは初めてだと思いながら、部屋中をぼんやりと見渡す。

 すると、ピカワンも同じように見渡していた。二人の視線が合うと、言葉を交わすまでもなく、お互いシンの姿を探していることは分かっていた。


 ピカワン君も…… やっぱりいない。まさか、一晩中チラシを配っているとかないよね。いったい何処に行ったのかな?


 心配をしているユウの耳に、外からナナやヨコキの店の女性たちの笑い声が聞こえて来る。 

 

 ナナちゃん…… 


 立ち上がって、よろけながら声のする方に歩いて行くと、ナナたちは庭ではしゃいでいた。 


「どうっぺぇこれ?」

「なかなか似合っているよ。あたいのはどうだい?」

「クルクル~、フルお姉ちゃんも似合ってる」

「あ~、クルに言われると嬉しい」

「キャミィも似合ってる」

「うん。ありがとう」

「ねぇねぇ、キャミィ、あたしはどう?」

「いい感じ」

「キャミィ、練習着も買ったっぺぇ?」

「うん」


 どうやら女子たちは、シャリィの護衛のもと買い物に出かけ、購入した服を身体に当てて喜んでいたようだ。

 そんなナナたちの目に、ふらふらと歩いて来たユウが映る。


「あー、のんべぇが起きてるっペぇ」

「クルクル~」

「ふらついてるじゃん」

「ユウ君大丈夫っぺぇか?」 


 ユウが答えようとしたその時、声に引き寄せられて現れた少年たちが、ナナたちが持っている服に気付く。


「あーーー!?」


「なんだっぺぇ?」


「買い物に行ってたっペぇかぁ!?」


「そうっぺーよ~」

「クルクル~」


 返事を聞いた少年たちの表情が一瞬で変化する。


「おらたちも行きたいっペぇ!」

「そうっぺぇ!」

「行くっペぇ!」


 昨晩、少女たちと同様に、売り上げの中から手伝い賃を貰っていた少年たちは、シロンを手にして出掛けようとする。だが、それをシャリィが制止する。


「悪いが、宿を明ける時間が近付いているので時間はない。帰り支度をしろ」


「ええー!?」

「うそっぺぇ……」

「……そ、そんなっぺぇ」


 少年たちの首がガクッと折れ曲がり、荷物をまとめる為、とぼとぼと歩き始める。それを見ていたフォワが慰めようとして声をかけるが、それが切っ掛けとなり、口論が始まってしまう。


「フォワフォワフォワフォワ」


「美味い酒が飲めたからそれでいいって、フォワはそれでもいいっぺぇ!」


「フォワ?」


「おらたちは知ってるっぺぇ!?」


「フォワ?」


「フォワとピカツーだけ、買い物に行ってたっペぇ!」


「フォワフォワ」


「それがどうしたって、卑怯っペぇ! 二人だけ買い物して! おらたちも行きたかったペぇ!」


「そうっぺぇ! それにフォワはこの町二回目だっぺぇ!」


「フォワ~フォワフォワ」

 

「どうしておらたちが悪いっペぇ!?」


 険悪なムードを察して、ユウとピカワンが止めに入る。


「ねぇねぇ、みんな。残念だけど、時間がない訳だから、今回は我慢しよ」

「事情があるっぺぇから、ユウ君の言う通り我慢するっペぇ。また来れる機会があるっペぇ」


「……」


「ねっ」


 ユウが呼びかけると、少年たちはしぶしぶ頷いた。


「……分かったっぺぇ」


 返事はしたものの、納得をしていない少年たちは、明らかに不機嫌な態度で足早にその場を離れて行った。それを見届けていたユウは、シンがいればもっとうまく説得できたのではないかと思い、シャリィに尋ねる。


「あの~、シャリィさん。シンを知りませんか?」


「シンは急用で、先にイドエに戻っている」


「えっ!?」


「ヘルと一緒だから、心配ない」


 その会話は、離れた所から見ていたカンスにも聞こえていた。

 

 だから急に姿が見えなくなっていたのか…… シンさんの姿も無かったから、あの・・ヘルがもしや・・・シンさんとなんて、思わず考えてしまってた……



 少年たちの騒動が起きる前のこと、教会の評議室では、タナ司祭の発議により緊急の聖務評定(評議会)が開かれ、それには、ブラッズベリン司教も同席していた。

 まずタナ司祭は、以下の事実を評議会メンバーに明かした。


 第一に、事件の発端は、ミレス司祭と3名の信徒が懺悔中に、一部のヘルゴンによって拘束されたことであった。


 第二に、この拘束に対し、ミレス司祭のディースタが不当であると申し出て抵抗を試みたが、残忍にも殺害された。


 第三に、ヘルゴンの隊員の告白によりこの事実を知った私タナ司祭は、関係者に沈黙を命じ、ブラッズベリン司教へ報告するためディースタを派遣し、指示を仰いだ。


 第四に、ブラッズベリン司教・・・・・・・・指示・・を受け、私タナ司祭とディーナがミレス司祭を救出に向かい、その過程で一部のヘルゴンとの武力衝突が発生した。


 タナ司祭が事件の説明を続けようとしたその時、予想外にもミレス司祭本人が評議室に数名の付き添いと共に現れた。拷問を受けたその痛々しい姿に、評議会メンバーたちは驚きの表情を浮かべる。


「あの者たちは、私と信徒を不当に拘束したばかりか、私の目の前で大切なディースタを……」


 悲痛な様子で証言をするミレス司祭に、評議会メンバーから同情の声が多く寄せられた。ミレス司祭は、その後の展開についてさらに悲惨な事実を語る。ドンケカーマで行われた拷問により、司祭本人は重傷を負い、共に拘束されていた3名の信徒は命を落としたという。


ロルガレあの者は、魔法石の行方を執拗に追及してきました。ご存じの通り、魔法石は厳格に管理されており、不正は不可能であります」


「……」


魔石証文リベローマに明記されていると何度も繰り返し説明しましたが、聞く耳を持ってくれることはありませんでした」 


 重傷にも関わらず評議室に現れたミレス司祭本人の証言により、今回の事件は、逃亡したロルガレと彼に従う一部の隊員による暴走行為であると位置付けられた。


 次に、タナ司祭の申し出を拒否し、ロルガレに加担した隊員たちの陳述書が読み上げられる。その中の隊員の一人は、魔法石の不正は事実であると強く主張していたが、評議会のメンバーたちは、これに懐疑的な態度を示した。さらに、ミレス司祭と共に拘束した者たちは、裏社会の者たちであるとも強調されていたが、信仰の道は職業や身分を問わず、全ての者に開かれているとして、不問とされる。他の隊員たちの陳述書に同じ様な証言はなく、あくまで聖務としてフィツァに従ったという陳述が概ねであった。

 結局、ロルガレに有利な発言をした隊員の証言は、信憑性に欠けるとみなされ、虚偽の陳述として扱われることとなる。


 事件の概要が明らかになった後、レリスへの聞き取りが行われた。ミレス司祭の証言によって、既にロルガレの罪がほぼ確定的となっていたため、レリスへの聞き取りは形式的なものに留まる。レリスがヘルゴンの隊員を殺害した行為については、ミレス司祭救出という緊急事態のおける自衛の行為と、後日正式に認められるであろう。

 

 最後に、ブラッズベリン司教は深く息を吐き、厳かな表情で言葉を述べ始めた。


「今回のディーナの一連の行動は、すべて私の・・指示によるものでございます。従って、ディーナに罪があるとするならば、それは、全て私の罪でございます」


 その言葉に、証言のため途中から同席していたタナ司祭付きの一人のディースタが微笑を浮かべる。彼女は、タナ司祭の言葉をレリスに伝え、その場でレリスから指示を受けた少女だった。つまり少女は、指示を出したのがレリスだと知りながらも、それを否定するどころか、むしろ憧れの眼差しを向けていたのだ。彼女の心には、ブラッズベリン司教とレリスの間にある強い信頼関係への羨望が芽生え、いつしか自分もディーナとなり、タナ司祭とそのような絆で結ばれることを密かに願ったのである。


 この教会は、今回の事件を機に変貌を遂げることとなる。レリスの目的は、ヘルゴンの中にいる特定の派閥を排除することだったのだ。

 だが、その計画は、当初からすべてが周到に練られていたわけではない。隊長カピティーンの殺害は、彼女の鬱積した怒りと、後をつけられている状況で、シンに会いに行けないという感情が引き金となった衝動的な行動だった。

 しかし、その決断と、ゼロアスのアシスト・・・・が、思いがけず大きな変革の扉を開くことになる。

 その後のロルガレの激昂と暴走は想定内のことだった。しかしながら、ミレス司祭の拘束とそのディースタの殺害は、常識を超えた行動であり、レリスさえも一瞬耳を疑った。

 だが、その驚きも束の間。レリスはこの予期せぬ状況を逆手に取る絶好の機会だと直感し、わずかな時間で綿密な作戦が鮮やかに描き出されたのだ。

 迅速に行動を起こし、邪魔となるヘルゴンの隊員たちを次々と排除し、完全に粛正する。この策略により、彼女は教会内の権力構造を変化させ、自分たちの利益に沿った新たな秩序を築く機会を手に入れたのだった。


「これにて、聖務評定を閉会いたします」


 突如として起きた事件の中で生まれた即興の作戦。レリスはそれを見事に、そしてほぼ完璧に遂行させたのだった。そして同時に、ロルガレを逃亡犯に仕立て上げることにも成功した。だが、本来なら完全に仕留めたかったところだが、逃亡犯という烙印を押せたことで、レリスは納得していた。


 何処に居るか知らないけど、一睡もせず、私に怒り狂っているでしょうね。うふふふ、いつでもいいから、私を殺しに来て。その時は、返り討ちにしてあげる。


 レリスは微笑を浮かべながら、傷を指でそっと触れる。


 必ずこの傷のお返しをしてあげる。




 殆どの者が立ち去った評議室の一角に、数人の司祭が集まっていた。


「どうもまいりましたな」

「ええ、まいりましたね」

「これでヘルゴンの編制が、否応なしに始まりますな」

「そうですね。ロルガレがあそこまで無能だとは……」

「前任者は変死。跡を継ぐはずだった者は逃亡」

「これでは、司教の思い通りの奉仕者になるのでは?」

「そうなると、あの・・司教が権力ちからを持ちすぎるのではありませんか?」

「なら先手を打ち、我々が結束してディーナに罪を問うのは?」

「タナ司祭が現場に居合わせ、ミレス司祭でさえ、ディースタの仇を討ったディーナを称賛していましたからね。そう簡単には……」

「まさに仇を持って報いるですな」

「つまり今回に関しては、難しいですな」

「司教はディーナの罪は私のと、そうはっきりと口にしましたからね。何か策があると考えたほうがよろしいかと」

「その懸念は当然でしょう。仮にも、この教会の司教トップなのですから」

「頭が痛いですな」

「中央は、やっかいな司教ものを押し付けてくれましたね」

「ですが、今まで通り、その中央の指示で我々は行動すれば、問題ないかと」

「ですな……」

「ヘルゴンの編制に関しても、何らかの手を打ってくれるでしょう」

「では、司教のご機嫌を伺うのは、まだ早いということで」

「ええ、ですが付かず離れずで」


 評議室を掃除する者が現れたため、司祭たちは会話を打ち切り、静かに部屋を後にした。



 先に評議室を出ていたブラッズベリン司教は、前を歩いている司祭に声をかける。

 

「タナ司祭」


「司教様」


 振り向いたタナ司祭はディースタの少女たちと共にブラッズベリンに会釈し、少女たちを先に行かせようとしたが、ブラッズベリンは手を上げてそれを制した。


「ディースタの者たちよ」


「は、はい!」


 4人のディースタは、緊張から返事が上ずっていた。


「君たちの働きにより、ミレス司祭の救出が果たされた。その功績を称えよう」


「も、もったいないお言葉でございます」


 4人のディースタは一斉に膝をつき、深々と頭を下げた。ブラッズベリンの許可を待って静かに立ち上がると、彼女たちは慎重な足取りでその場を離れていく。

 その姿を見ていたブラッズベリンは、距離が十分開いたのを確認してからタナ司祭に声をかける。 

 

「司祭、あなたのお陰でディーナの命が助かりました。お礼を言わせてください」


 タナ司祭はその言葉で頭を下げると、静かに答えた。


「恐縮です、司教様。しかし、私にはお礼を受ける資格はございません」


「どういうことでしょうか?」


 タナ司祭は顔を上げ、司教の目を見つめた。その瞳には深い悲しみが宿っていた。


「確かにディーナの命は救うことができました。しかし、他の方々を守れませんでした。数人の尊い命が失われたのです」


 ブラッズベリンは、理解を示すように頷く。


「あなたは最善を尽くしたのです、タナ司祭。あの状況下では、全員を救うことは不可能でした」


「それでも……」


 タナ司祭は言葉を詰まらせた。


「もし私がもっと上手に説得できていたら……」


 ブラッズベリンは、慈愛に満ちた表情で、震える司祭の肩に手を置いた。


「自分を責めすぎてはいけません。あなたの行動は多くの命を救いました」


「……ですが」


「タナ司祭、この事態を収められたのは、あなただからこそです」


「……」


「私が説得を試みたところで、誰一人として耳を傾けてはくれなかったでしょう」


「……」


「あなたの高潔な行動と深い慈悲の心が、ミレス司祭の命を救ったのです。失われた命を悼むあなたの姿勢は崇高です。しかし同時に、あなたが救った命々にも目を向けてください。あなたがいなければ、さらに多くの悲劇が起きていたでしょう。その事実もまた、重く受け止めるべきなのです」


 タナ司祭は深く息を吐き、少し肩の力を抜いた。


「ありがとうございます、司教様。ですがどうしても……」


「その思いは大切にしなさい」


「……」


「その深い洞察と献身的な姿勢が、あなたを聖職者としてさらに高みへと導くことでしょう」


 その言葉に、タナ司祭は目を閉じてゆっくりと頷いた。

 

 廊下に静寂が満ちる中、ブラッズベリンの言葉が、タナ司祭の心に希望の灯火を少しずつ点していった。





 昼下がりの柔らかな日差しが街路樹の葉を透かし、カフェのテーブルに落ちる影絵を揺らす。数時間前には死闘を繰り広げ、その後、評議会で陳述を行ったレリスは、その疲労を隠しながら、ようやく訪れた安堵の時間を噛みしめていた。そんな彼女の傍らには、侍女のトレッサの姿があった。


「わぁー、素敵なお店ですね、レリス様」


 その言葉に、レリスは目を僅かに細める。


「トレッサ……」


「あっ、申し訳ありません。このお店でお名前を呼んではいけないのでしたね」


「ふふ」


 トレッサの言葉にレリスが優しく微笑むと、ちょうどその時ウエイトレスが彼女たちのテーブルに近づいてきた。


「今日は何になさいますか?」


「いつものを二つお願いします」


「かしこまりました。あっ」


 注文を受けて立ち去ろうとしたウエイトレスが、何かに気づいて足を止める。


「いつもの席は空いておりますよ」


 レリスは店を訪れた時に、必ず座っていたお気に入りのテーブルに視線を向ける。


「……今日は、ここでいいわ」


「はい。では、少しお待ち下さい」


 ウェイトレスが立ち去ると、トレッサはレリスに話しかける。その声には、初めて訪れたカフェの雰囲気に魅了された喜びと興奮が溢れていた。


「ねぇねぇ、いつものって何ですか?」


「来てからのお楽しみ」


「えー、良いじゃないですかぁ。教えてくださいよー」


「ダーメ」


「えー」


 二人の会話が織りなす和やかな空気が、カフェ全体を包み込む。しかし、その穏やかな瞬間は長くは続かない。突如として、その静寂を引き裂くような大きな声が、通りから聞こえてきたのだ。


「どうだっぺぁ、これ見ろっぺぇ!」

「なんだっぺぇ?」

「珍しい珍しい一品物が買えたっぺぇ」 

「あー、それオラも買ったっペぇ」

「マ、マネするでねぇっぺぇって!? あのハゲオヤジ! おらを騙したっペぇね!」

「おらには一品とか言ってなかったっペぇ、あのハゲオヤジ」

「フォワフォワフォワフォワ」

「どっちにせよガラクタって、そんな言い方するでねぇっぺぇ」 

「あんた、あの店にも行ってみようよ」

「あ~、かあちゃんとデートなんて、昔を思い出すの~」

 

 本来なら直ぐに帰るはずだったが、ユウの説得でシャリィが了承し、少年たちのみならず、大人たちも買い物を楽しんでいた。


「何ですかあの人たち?」


「……」


「もうー、せっかくの雰囲気を壊さないでぇー。ハゲとか言っちゃって、無粋な人達ですね。ぷんぷん」


「……そうね」


 レリスは微かに唇を動かして、はしゃぐイドエの者たちを見ていた。



 ……命を賭けた私の努力を、あなたたちがコケて・・・潰したりしないでね。



 その瞳には、策略の成功の喜びと新たな不安、そして、シンへの思いが交錯していた。お気に入りのカフェでの束の間の平和は、レリスにとってまだこれからも続いていく、戦いへの準備期間でもあった。


「おまたせいたしました」


「わぁー、すごーい」


 運ばれて来た料理に感動するトレッサを見て、レリスの頬に柔らかな笑みが浮かんでいた。



 その頃、ブラッズベリンは自室で独り、冷静に状況を分析していた。


 深夜、自身が就寝中にレリスが命を懸けて策略を遂行し、成功に導いたこと。さらに、失敗の際には全責任を、レリスが自ら負う覚悟であったという事実。その忠誠と献身に対し、ブラッズベリンは確固たる決意を固める。彼は顔を上げ、威厳に満ちた声で言い放つ。


「レリス、お前の進言通り、この私自らがイドエに赴くことにしよう」


 昼下がりの陽光が、信頼に身を委ねたブラッズベリンの安らかな表情を柔らかく照らしていた。

 

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