153 幻想と現実の境界線
シンとユウがテントの中に足を踏み入れると、千席近くある座席のほとんどが既に埋まっていた。二人は少し早い時間だと感じていたが、実際にはあと10分ほどで19時になるところであった。ざわめきが響く中、案内されて自分たちの席に向かいながら、集まった観客の熱気を感じ取っていた。
あ、僕達のチラシを見ている人が沢山いる……
リップバーンは、訪れた観客にシンから受け取ったチラシを配るように指示していたのだ。座席に腰を下ろした観客たちは、そのチラシを手にして内容を眺めており、ガーシュウィンの名が記載されている部分を指差す者もいた。テントの柱にはポスターも貼られており、数に限りのあるチラシを手に入れられなかった観客たちは立ち上がり、わざわざポスターに目を通している。これにより、全ての観客が情報を得られるよう、工夫され貼られていたのだ。
あそこにも、あっちにもポスターが……
シンはその気遣いに気付き、リップバーンに対して深い感謝の気持ちを抱いていた。
そんなシンであったが、一つの疑問が浮かんでいた。
こんなにも沢山の人がいるのに、シャリィは俺がパリンさんと話している僅かな間に安全を確認した。
どんな魔法を使ったんだ? それとも、魔法以外に何か……
「ここだ」
二人が案内されたのは、通路の隅に急ごしらえで設けられた席であったが、舞台がくっきりと見える絶好の場所だった。
「ありがとう、パリンさん」
「楽しめよ。じゃあな」
二人を案内し終えたパリンは、再び入り口の警備に戻って行く。
シンが席に座ると、何かに気づいて軽く視線を向けたその瞬間、ユウが口を開いた。
「シン」
「うん?」
「お客さんたちがチラシを持っているね」
「あぁ、俺がここの人に渡したんだ。ポスターと一緒に」
「いったいどうやってそこまで仲良くなれたの?」
真実を打ち明けるべきか一瞬悩んだが、正直に話す事にした。
「実は…… ここの団長さんと女優さんは、ガーシュウィンさんの知り合いだったんだ」
「えっ?」
「冒険者ギルドから出た時に偶然会って、それで、俺の持っているチラシを見て……」
そうだったんだ……
「その人達と話し合って、10月20日までは会わない様に頼んである」
「……」
「ガーシュウィンさんの事情を考慮して貰い、他にも俺なりに色々考えて、それでそうお願いしたんだ」
シンは少し俯いて、そう説明をした。
「そっかぁ……」
その人たちが、ここに招待してくれたんだね……
何かは分からないけど、その話し合いの中で、たぶん大きな出来事があった……
ユウはシンの様子から、そう感じ取っていた。
シンは全てを、その全てを受け止めて、僕にはアイドルのことだけに集中させてくれている。
僕は、その気持ちにしっかり応えないといけない。
ドロゲンは二人の後方の席に家族と座っており、ユウと会話をするシンを見ていた。
あいつ、あんないい場所の席に……
それにしても、至る所にあいつが配っていた内容と同じポスターが貼られているなんて……
いったいどんな手を使ってヘイワース劇団の協力を!?
「あなた」
「う、うん?」
「そろそろね。凄く楽しみだわ」
「そうだね……」
テント内の照明が徐々に暗くなると、座席に座った観客たちが静まり返る。
「あ、始まるみたいだね」
「あぁ」
上部の光がゆっくりと消えていく中、シンは、舞台前方の
4席も……
ちょうどその時、周囲の客の顔も次第に見えなくなり、暗闇が全体を包み込む。薄暗い中で、舞台だけが静かに輝きを放ち、その中央にスポットライトが一点集中した。
この照明…… 何か不思議な感じがする。
その光景は、異なる世界からやってきたシンとユウの心をも一瞬で引き込む。観客たちの呼吸音さえも感じられる静寂がテント内を満たし、全ての視線が舞台に集中する。
スポットライトの様な照明までもが落ちると、完全な暗闇に包まれ、舞台上の僅かな光が次第に物語の始まりを告げる。シンとユウはその瞬間を見逃さないようにと、目を見開き、心を躍らせながら演劇の幕開けを見つめていた。
さっきまでただの舞台だったのに、いつのまにかセットが……
暗闇の中から舞台に現れたセットは、恐らく魔法の力も駆使して作られた物だろう。細部まで丁寧に作り込まれたそれは、あまりにもリアルで、まるで生きているかのような存在感を放っていた。
現実の風景が、いやそれ以上の幻想的な世界がそのまま舞台上に再現されたかのような錯覚に陥り、光と影の演出も相まって、シンとユウの視線を完全に釘付けにする。
魔法を使って何かをするのは分かっていたけど、まさか…… ここまでとは……
シンの胸に、言葉にできないほどの感動と
「ヒューー」
二人の耳に、突然風の音が響く。その音はあまりにも本物のようで、二人はまるで荒廃した廃墟の中に立っているかのような錯覚を覚える。
それは、音響技術の素晴らしさを見事に示していた。シンとユウはその風の音一つに圧倒され、心が震えてしまう。
やがて、舞台に一人の老人が登場してくる。彼の姿は貧乏な農夫を彷彿とさせるもので、粗末な服に身を包み、杖をつきながらゆっくりと歩く。
信じがたいことだが、今舞台に立っている俳優は、キッチンカーの前でおかしな言葉を叫んでいたラケンサーその人であった。
「皆の者、私の話を聞いてくれ。今から話すのは、遥か昔のこと、我々の村がまだ繁栄していた時代の話じゃ」
観客に向かって語りかけるその姿には、一瞬にして全員を引き込むカリスマ性があった。
上手い……
「村は緑豊かな田園風景に囲まれ、人々は朝から晩まで畑で働いていた。麦が黄金色に輝き、風にそよぐ音がまるで鳥の歌声のように響いていたのを覚えておる。あの美しい光景は、今でも私の心の中に鮮明に残っておるのじゃ」
シンの目は大きく見開かれ、ユウも息をのむように見入っている。
舞台中央で、年老いた村人が杖をつきながら、遠くを見つめてさらに語り始める。
「ああ、春よ。あの頃の春は格別じゃった。花々が一斉に咲き誇る様は、まるで大地が歓びの衣をまとうかのようじゃ。
子どもらの歓声が草原に響き渡り、夜ともなれば、わしらは村の広場に集まっては、食卓を囲み、おしゃべりを楽しんだもんじゃ。
今にして思えば、あの笑顔、あの笑い声こそが、この世の何よりも尊い宝じゃったのう」
懐かしむように目を細め、ゆっくりと前に歩み出て観客に近付く。
「そして夏が来れば、みな豊作の夢に胸を膨らませたもんじゃ。収穫には、老いも若きも、みな一つになって喜び、酒を酌み交わした。ああ、あの日々よ……」
胸に手を当て、感極まったような仕草をする。
「今でも思い出すと、この老いた胸が熱くなる。あの頃の喜びが、今もこの身に宿っておるようじゃ」
静かに目を閉じ、深くため息をつくラケンサーの演技は完璧で、非の打ち所がない。
「秋風が吹き始めると、狩りの季節の到来じゃ。村の男衆が弓矢を手に森へ分け入る姿が、今でも目に焼き付いておる。
獲物を担いで戻ってくりゃ、たちまち祝宴の火が灯る。肉の香ばしい匂いが立ち込め、酒が注がれる。語らいに花が咲く、あの温もりに満ちた夜よ…… ああ、わしの心に刻まれた思い出じゃ。そして、冬が来る」
両手を胸の前で組み、身を寄せ合う仕草をする。
「家族みんなで暖炉を囲み、外の吹雪に耳を傾けながら、互いの温もりを分け合ったものじゃ。
厳しい寒さの中にあっても、家の中は笑顔と愛に満ち溢れていた。ああ、あの頃の幸せな時間よ」
ここで老人の表情は一変し、口調も変る。そして、季節によって変化していた背景のセットが突如として崩れ去り、木々の緑が褪せ、枝が捻じれていく。家は朽ち果て、窓ガラスが割れ、壁には亀裂が走る。
「時は流れ、魔族の侵攻により戦乱が勃発し、さらに疫病が世界を襲い、あの美しい日々は遠い過去のものとなってしまった」
かつての美しい景色は跡形もなく、荒涼とした廃墟の風景が目の前に広がっていく。空は灰色に曇り、生気を失った大地には枯れた草が風にそよぐだけだ。二人は息を呑み、目の前で進行する風景の劇的な変貌に言葉を失う。
「だが、あの頃の記憶がある限り、私は決してあの時代を忘れぬ。そして、ここにいる若者たちよ、お前たちのその若き力で、どうかこの村を、人間の世界を再び輝かせてくれ」
他の俳優の演技も素晴らしく、二人の視線は一瞬たりとも離れることなく、舞台の一挙一動を追っている。
そして、物語が佳境に差し掛かると、名女優リップバーンが魔族の女王として舞台に登場する。
リップバーンさん……
大女優が優雅に登場すると、さらにその場の空気が一変する。彼女の存在感は他に類を見ないほど圧倒的で、まるで舞台全体が彼女のために作られたかのようだった。
「この地に集いし者たちよ、私が恐怖と混乱をもたらす者、そしてこの世界の真の支配者である」
彼女の声は深く響き渡り、一言一句に魂を込め、観客の心を掴む。時に激しく、時に静かに、感情の起伏を身一つで表現しており、まるで物語の一部に引き込まれるような錯覚を覚えるほどだった。
な…… なんという演技なんだ……
「愚かなる人間どもよ。汝らの無謀なる勇気と、底知れぬ愚かさが、
この運命の時を呼び寄せたのだ」
片手を高く掲げ、声に力を込め、台詞を口にする。
「今こそ、最後の覚悟を決めるがよい!
汝ら
その息遣いひとつ、まばたきの一瞬に至るまで、すべてが計算され尽くし、まぎれもなく芸術であった。
この場にいる観客、そしてシンとユウもまた、その存在感に衝撃を受け、リップバーンの演技に見入っている。
素晴らしい……
凄い…… もしかしてこの人が、ガーシュウィンさんの……
客席から漏れ出た小さなため息が波紋のように広がっていく。それは、リップバーンの台詞の余韻なのか、観客の反応なのか、もはや区別がつかない。観客は単なる傍観者ではなく、物語の共同創造者となり、その存在自体が舞台空間の不可欠な要素となっていくのであった。
「魔族の女王よ! 人間を、全ての生き物を滅ぼすと言うのか!?」
「世界を滅ぼすだと? なんと愚かな。私が望むのは支配だ。滅びた世界に何の価値がある?」
物語は終盤に差し迫り、リップバーンの演技はさらに鋭さを増していく。フィナーレが近づくと、彼女の迫力ある演技が舞台全体を包み込み、観客全員が息をのむように見守った。共演者の俳優たちもリップバーンのこの日の演技に圧倒され、その場の空気が一層張り詰める。
シンとユウは、名俳優リップバーンの圧巻のパフォーマンスに心を揺さぶられ、気がつくと体中に力が入っていた。関係者たちが舞台袖で彼女の一挙手一投足を見守り、その演技の凄さに息を呑む姿があった。リップバーンの存在感が舞台全体を支配し、誰もがその瞬間を見逃すまいと目を凝らす。
物語のラストは、教会の力と信仰により、人々は再び結束し、団結した力で女王と魔族を見事に打倒する。
「愚かなる人間よ、我が敗北を喜ぶのは、まだ早かろう!」
「負け惜しみを……」
「ふはははは、負け惜しみではない! 魔族の血脈は、永遠に途絶えることはない! 我らの闇の炎は、いつか必ず再び燃え上がる!」
「女王よ! 去るのだ、永遠に」
「この敗北など、ほんの一時の後退にすぎぬ。我らの復讐は、より凄まじいものとなって降り掛かるであろう! 覚えておくがよい! 魔族は不滅なり! 我らの怨念は永遠に、永遠に続くのだ!」
魔族の女王は、闇の中へ消えていった。
「同胞たちよ、我らは勝利した! 魔族の女王は倒れ、その脅威は去った!」
「おぉー! おぉー! おぉー!」
「荒廃した大地を癒し、傷ついた心を結び付ける。それこそが、我らに課せられた次なる使命。共に手を取り合おう。老いも若きも、
その後、教会によって進展された魔法により疫病を克服し、飢餓も乗り越える。人々は教会の指導のもとで再び繁栄の道を歩み始め、教会は単なる宗教的な存在を超え、社会の基盤として新たな時代を築くことに成功したのであった。
「さあ、新しい章の幕開けだ。共に歩もう、希望の道を!」
舞台が突如暗転し、劇場全体が闇に包まれると、数秒の静寂の後、かすかな光が舞台を照らし始める。
光が強まるにつれ、舞台上に全ての俳優たちの姿が浮かび上がり、彼らが整然と並ぶ様子を見て、観客たちは自然と立ち上がり始める。
そこへ、ヘイワース劇団の団長兼総監督のアルベイト・フィーラが姿を現す。
彼は観客に向かって両手を大きく広げ、会釈した。その瞬間、劇場中に拍手が沸き起こる。その音は波のように広がり、次第に大きくなっていった。やがて、その喝采は轟音となり、テント全体を包み込むほどの盛大なものへと膨れ上がった。
「ブラボー! ブラボー! こんな感動的な舞台は初めてだ!」
「いやもう、最高だった!」
「もう一度、いや、何度でも見に来ます!」
「みなさん素晴らしい演技でした!」
「まさに芸術の極みだ! 魂を揺さぶられたよ!」
「流石稀代の名女優!」
「この感動、どう言葉にしていいか…… 本当にありがとう!」
「ヘイワース劇団よ、この町に来てくれた事に感謝します!」
「圧巻の舞台だった!」
「あなたたちは本当に素晴らしい! 最高の劇団だ!」
鳴りやまぬ声援が劇場を包み込む中、舞台上の俳優たちは観客の熱狂に応えるように、感謝の笑みを浮かべる。一人ひとりが観客席に向かって手を振り、心からの謝意を示した。その光景は、観客と俳優の魂が響き合う感動的な瞬間だった。
その歓喜の渦中で、リップバーンの眼差しが意図的にシンを捉える。二人の視線が交差すると、周囲の喧騒が遠のいていくかのように、時間が緩やかに流れ始め、リップバーンとシンは、言葉なき対話を交わすように、しばしの間見つめ合った。
シンは惜しみない拍手を送りながら、心からの称賛を込めて微笑み、深く頷いた。その真摯な反応に、リップバーンの表情が柔らかくなる。優しい微笑みを湛えながら、両手を大きく広げ、シンに向かって軽やかに会釈した。その仕草には、単なる俳優と観客の関係を超えた、特別な感謝の念が滲んでいたように思えた。
リップバーンさん……
二人の間で交わされたこの瞬間の交流は、唯一アルベイトだけが気付いていた。
やがてリップバーンは、静かに、しかし堂々とした足取りで舞台袖へと姿を消していく。
舞台から全ての者が消えても、その後も拍手は鳴り止まず、シンの心には温かな余韻が残り続けた。
招待してくれて、ありがとうございました。本当に、素晴らしい舞台でした。
長く続いた熱狂的な拍手が、ついに静まりを見せ始めた。テント内に満ちていた高揚感が、ゆっくりと現実の空気に置き換わっていく。
ざわめきと共に、人々はゆっくりと出口へ向かって動き出す。あちこちで感想を語り合う声が聞こえ、時折感動の余韻に浸る溜息が漏れる。列をなして進む人々の間で、まだ余韻に浸りたげに座席に留まる者もいた。
人々の流れに乗って、シンとユウもゆっくりと出口へと向かっていた。二人の周りでは、興奮冷めやらぬ観客たちの感想が飛び交っている。しばらくの間、二人は沈黙を保っていたが、やがてユウが静かに口を開いた。
「シン…… 凄かったね。僕、こんな衝撃を、感じた事なかった…… 今まで」
うん、そう。下り道13のライブを初めて見た時よりも、衝撃的だった……
シンはこの瞬間、ユウをここに連れて来たことを少し後悔し始めていた。舞台の素晴らしさは、自分の想像を遥かに超えており、それがユウの自信を傷つけてしまったのではないかと心配していたのだ。
それでもシンは、嘘偽りのない感想を口にする。それは、リップバーンへの、ヘイワース劇団への敬意の表れであった。
「ただでさえ生の迫力は凄い力があるのに、おまけにあの演技に魔法……」
「うん、本当に驚いちゃった……」
「正直に言うと、俺も驚きを通り越えて、何も考える事が出来なかったというか…… 兎に角感動したよ。それに、競っても勝てる気はしない」
シンはそう言うと、ゆっくりとユウに視線を移す。ユウは足を止め、振り返って舞台を見つめたまま静かに答えた。
「うん、僕もそう思うよ。でも……」
「……」
ユウはシンの目を見つめる。
「僕たちは、僕たちにしかできないことをやるんだ。そうだよね?」
シンは口元に微笑を浮かべる。
「あぁ、その通りさ」
シンは何かを悟ったかのような揺るぎない決意に満ちた表情をして、二人で静かに舞台に目を向けていた。
確かにどれも非の打ち所がないほど素晴らしかったが、そのシナリオは俺の想像通り…… チープだった。
シンとユウがテントから外に出ると、涼しい夜風が顔に当たる。二人と同じように、感動に包まれた観客たちが次々とテントから出てくる。 歓談しながら歩く人々の中に、立ち止まっているシャリィの姿が目に留まる。
「あっ、シャリィさん。すみません、お待たせしちゃって」
「問題ない。帰ろうか?」
「はい!」
そう返事をしたユウに、シンが何かを思い出したかのように声をかける。
「あ、ユウ」
「うん?」
「冒険者ギルドは?」
「うーん、今日はもう良い時間を過ごせたから。それに……」
「うん?」
「ピカワン君やフォワ君たちも我慢しているのに、僕だけがこれ以上……」
「……そうか。じゃあ、帰ろうか?」
「うん!」
ユウの問題は解決したが、シンの心に引っかかる一つの疑問があった。それは、あの空席のことだ。恐らく、あの席は貴族か、それに準ずる身分の者のために用意されていたのではないか。そう直感していた。
この時のシンの予感は的中していた。あの4席は確かに、ある貴族のために準備されていたものであった。だが、シンが渡したポスターやチラシが切っ掛けとなり、その貴族が現れることは無かった。
もし俺の思っている通りなら、明日もそっちの方は、期待は出来ない……
シンとユウが宿へ向かう途中、建物から出てきたフラソたちと偶然出会った。フラソ、ラペス、アルスを含む一行は準備を終えたところで、ヨコキの店の女性たちも同伴していた。カンスとヘルに護衛された一同は、シンとユウを笑顔で迎える。
明日の件の話をしながら、荷物を積んだ馬車と共に、皆で宿へと向かって歩き始めた。
「シン君、明日の準備は万端だ」
「こんな遅くまでありがとうございます」
「シン~、疲れちゃったよ~。あとで部屋にきて身体をほぐしてよー」
「あたしも~」
「私も疲れちゃったから乳揉んで~」
「いやいや、流石に乳が疲れたは嘘でしょ?」
「きゃはははは」
フラソも女性たちも楽しげにシンと話をしていた。
そんな中、女性たちはユウを見てある反応を示し、小声で話し始める。
「あの子は揶揄っちゃ駄目なんだよね?」
「そうそう、ママからきつく言われた子だよ」
その時ユウは……
あー、真っ赤な髪がかっこいい~。背が高くて身体も大きいし、強そうだ~。剣も装備もかっこいい~、ずっと見てられる。ほんと凄~い、異世界もののアニメに出て来る、凄腕の冒険者みたいだぁ~。
ヘルを見つめるユウはまたしても、憧れの眼差しでトランペットを見つめる少年のようになっていた。
一方、そのユウに見つめられているヘルは……
あ~、シャリィ様。夜でも美しい~。
ユウと同じ様な瞳で、シャリィを見つめていた。
「ご苦労」
シャリィのねぎらいの言葉に、ヘルは一瞬驚いたような表情を見せた後、慌てて口を開く。
「とっ、当然のことですので!」
ヘルの声にはわずかに緊張が感じられ、シャリィの存在がいかに重要であるかがうかがえる。
共に宿に戻ると、ソフォーが変わらず門の側に立っていた。
こんな遅くまでずっと……
「ソフォーさん、申し訳ない。こんな遅くまで一人で」
「いえ! へい! き! です! ので! しん! ぱい! 無用! です!」
「食事は?」
「オス! オ! さんに! いただ! き! まし! た! たい! へん! 美味! でし! た! ありが! とう! ござ! います!」
「そのしゃべり方、じわじわ好きになってきちゃった~」
「分かるわ~、なんか一途な感じが出てな~い?」
「ソフォーくーん、私が疲れをとってあげるから部屋においで~」
「きゃははは。シンもカンスも誘ってたくせに、4Pするつもりなの?」
「それいいね~、混ぜて混ぜて~」
「ぎゃはは、なんPなるのよ?」
「逆にソフォー君の疲れが増すじゃんかぁ~」
「ちがいね~。きゃははは」
うひょ~、たまらね~。シャリィ様もいるし、本当に楽園みたいな依頼だな~。
鼻の下を伸ばしていたヘルだが、ソフォーのイフトを感じると、その表情は一変する。
こいつ…… 普通じゃねーな……
ヘルは女性達と笑顔で会話をしているシンを一瞥する。
あいつと違って、かなり強い……
もしかして、こいつもシャリィ様のシューラなのか?
そう思いながらソフォーの側を通り抜けて庭に入ろうとしたその時。
いいね~。近付くと、あたしの肌がゾクゾクしやがる。クケケケケェ。
ヘルはソフォーの横を通り過ぎた瞬間、湧き上がる高揚感を抑えきれず、心の中で歓喜に満ちた笑みを浮かべている。
しかし、ソフォーは眉一つ動かさず、変わらず空を見つめ続けていた。
「あのさ、カンスとヘルさんもここに泊ってくれる?」
「はい。それも依頼に含まれるのであれば、泊まらせて頂きます」
「頼むよ。食事も部屋も用意するからさ」
「はい!」
カンスは直ぐに返事をしたが、ヘルは振り返ってソフォーを見ている。
「……」
「ヘル!?」
「ん? あ、あー、こんな良い宿に泊まっていいの?」
「あぁ、勿論だよ。一緒にいてくれたら、助かるよ」
「では、御言葉に甘えて。なぁ、カンス!」
「うん……」
何か変だな? シャリィ様と同じ宿に泊まれるから、もっと喜んでいいものなのに……
「フォワフォワフォワ~」
「お、フォワ! 出迎えに来てくれたのか? うわっ! 酒くさっ!」
「オロロロロロロォ」
「あー、フォワ君がゲロ吐いたー!」
この後、ユウの質問攻めと食事を終えて眠りにつこうとしていたカンスの部屋に、複数の女性たちが押し入る事件が起きた。彼女たちは狂気じみた表情を浮かべ、カンスに向かって猛然と襲いかかったが、カンスは彼女たちの手をかわしながら部屋から逃げ出す事に成功した。
「はぁはぁはぁ、あ、危なかった……」
カンスは心の中でそう呟き、無事に童貞を守り切ったことにほっとする。
どうしよう…… もう怖くて部屋に戻れない。
深夜0時ちょうどになると、門脇に佇んでいたソフォーが音もなく静かに消え去る。それが合図となったのか、宿の敷地全体を覆うように、生き物のような冷たく不気味なイフトが広がり始める。このイフトは闇と同化し、冷たい霧のごとく周囲を浸食していった。
「コンコン」
「ヘル、起きてる? ちょっとトラブルがあってね、この部屋で一緒に寝てもいいかな?」
ノックをした後に、そうドア越しに話しかけていると、突然、部屋着で剣を手にしたヘルがドアを開けた。
「あー、びっくりした! 僕だよ、僕!」
「……」
「……ヘル?」
「……」
「どうかしたの?」
「……少し、庭に出てみないか?」
「庭に? 別にいいけど……」
どういうことだろう?
カンスは庭に出ると、少し肌寒さを感じる。
「うぅ、この前まで居た所は暑かったのに、ここは少し肌寒いね」
「……」
「……ヘル?」
返事をしないヘルの顔を、カンスは覗き込む。
いつになく真剣な表情。本当にどうしたのかな?
「……」
カンスは気付いていない。まぁ当然か…… このイフトはまるで、まるで夜の闇そのものだ!
ヘルは辺りを警戒するが、漆黒の霧のようなイフトの人物を見つけれずにいた。
どこだ…… どこにいる? このあたしが、方角すら見当がつかないなんて…… マジでただ者じゃねーな~、あの門番以上に……
門に視線を向けて、ソフォーが居ないのを確認したヘルは、振り返って宿を一瞥する。
あたしが気付いているのに、シャリィ様が気付かない訳ない。つまりこのイフトの奴も、仲間って事か……
クケケケケ、これは、ただの護衛の依頼じゃない。裏で大きな何かが…… クケケケケェ。
「ヘル、戻ろう。寒いし、疲れたから眠いよ」
「クケケケェ、分かった。戻ろう」
い、今の笑い方は、ヘルが本気になった時の……
その笑い方で、何事かに気付いたカンスは、真っ暗な宿の周囲を警戒しながらヘルの部屋へと戻って行った。
その後、夜の闇から、おぞましい振動が空気を震わせる。通常の耳では捉えがたいその音は、背筋を凍らせる恐怖を
「ヴォゥゥゥゥ」
このイフトの源となる人物は、以前シンがサヴィーニ一家の事務所を訪れた際、通り沿いの家の二階から彼を鋭く見つめていた者と同一だった。だが、ソフォーと交代で現れたこの存在は、サヴィーニ一家には属していない。闇のようなイフトを自在に操る姿が物語るように、その忠誠はただ一人、バルチアーノにのみ向けられていた。
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