第6話

酷い夢だった。

見慣れた天井にほっと息をつく。寝ながら泣いていたのか、枕が濡れていた。汗だくのパジャマを脱いで、いつも通りの制服に着替える。



夢の中の出来事が、まるで現実のようにリアルで怖かった。見下ろした二丘そうきゅうのちょうど真ん中辺りを撫でる。痛みもなければ、当然、穴など空いてはいない。

ゼンと名乗る男に撃ち込まれた跡は無かった。ちらりと覗いたお腹は、昨日と1ミリも変わってはいない。

ちょっとくらい、減ってくれたらよかったのに。思春期の女子高生らしい、小さな悩みに笑いがこぼれる。

本当にただの夢だった。


「当たり前か」


悪夢を見たからと言って、学校が休める訳では無い。それに、むしろ今は普段通りの日常を送る方が落ち着けそうな気がした。

鞄の中に荷物を詰め込んで、忘れ物が無いかどうか確認する。


(今日は、目覚めが悪かったし、朝ごはんは軽くしようかな。それから天気予報も見て、占いはちゃんと確認しないと)



通学までの段取りを考えつつ、ドアノブを捻った。



───────真っ白。

目を開けているのも辛いほど、眩しい白に襲われる。何度瞬きを繰り返しても、覆らない。何も描かれていないキャンバスに、飛び込んだように。

色彩のついた私だけがそこにいる。


「え」


私室に繋がる扉を振り返ると、確かにそこだけ切り取られたように、私の部屋があった。

日当たりの良いベッドに、少し大きめの本棚。お気に入りのCDとアルバムの詰め込まれた引き出し。

昨日開いていた雑誌のページまでそのままで。

けれど、壁一枚を隔てた外側は全て白い空間で埋め尽くされていた。


(何これ……)


不気味な光景に、喉が鳴る。冷や汗が背を伝った。こういう流れは、よろしくない。

だって、これではまるで。

夢の中での出来事を想起させる。


「起きろ」


嗚呼、どうか、呼ばないで。

この声をわたしは知っている。指先が震えていた。私の名前、今なら分かる。ちゃんと分かるから。

あと一歩。戻るだけでいい。それでアルバムを捲れば、親友と撮った写真を覗けば。私の本当の名前がちゃんとあるはずだから。


「私の名前は、……」


「起きろ、ミコ」


空間に広がるように響く男の声は、泣きたくなるほど優しくて、それが余計に残酷だった。


「私の名前は……………ミコ……じゃないのに……」


「ミコ」


ミコという名前が私の本当の名前を塗り替えた。リビングへ向かえばあったはずの家族の顔も名前も、思い出せない。代わりに、あの悪夢の中で出会った妖怪たちの姿が次々と現れる。


「違う、そうじゃない」


やめて。掠れた声で願っても、ミコを呼ぶ声は止まない。

記憶の中の、朱雀すざくの声もした。不安げに、手を握ってくれたあの柔らかな手を、私は思い出してしまう。それから、私の事をなんの戸惑いもなく傷付ける怖い存在がある事も。否応いやおうなしに思い出す。

息が乱れ始めた。痛みの無かったはずの腹部と身体の端まで大小関係無く熱を帯びる。

穴だ。赤い水面に、空色。


「ミコ」


頭を抱えて、取り乱す私をさとすような声色だった。ふと、振り乱していた頭に温度を感じる。温かかった。手つきはどこまでも優しい。大切な宝物に触れるように。慈しむように。


「誰?」

「誰でもいい」


眩しすぎて、誰か分からない。聞いた事がある気がした。気の所為かもしれない。

悪夢の中の誰とも違う服装だ。

逆光が眩しすぎる。輪郭を捉えることすら、難しい。


「おいで、ミコ」


どうしてか、その声に呼ばれると、差し出された手を取らなければならない気持ちになった。


この人なら、私を裏切らない。

この人に、ついて行かなければならない。

私で無ければ、駄目なのだ。

まるでもう一人の私が、身体を支配しているようにスムーズにその手を取った。

その人が、安心したように笑った気配がする。


「待っている。いくんだ、ミコ」

「は、い」


行かなきゃ。あの世界へ。

私を待っている人のもとへ。


手を繋いだまま、歩いて行く。その間、言葉をかけられることは無かったし、私も何も言わなかった。必要がない事だった。

ゆっくりと、指先をなぞるようにして、手が離される。名残惜しさを感じてその人を見るが、もうそこには誰も居なかった。

はじめから、私以外誰も居なかったように。

途方も無い白い世界は、突如として終わりを告げた。












「つまんない!つまんない!」

弾けるような子供の声だった。

何度こうして目覚めるのだろうか。痛みがない事に安堵しながら瞼をあげる。

眩しさを感じるものの、真っ白な世界では無かった。ひとまず、帰っては来れた。


()


自分で思った事に、疑問を抱く。けれど、それを許さないように、目と鼻の先にある空色が大きく開かれた。


「おきた!ユーゴ!おきたよ!」

五月蝿うるさい。分かってる、余計なことはするな」

「はーい」


年端もいかない女の子だった。ふわふわと黄色い裾をはためかせて、長身の影の元へと走って行く。黒いシルエットには、見覚えがあった。親子程に離れた見た目と身長だ。


来客あれには俺が説明して見送る。お前は答えを待てばいい」

「うんうん。ミコとは遊んじゃだめなの?」

「ミコには天命がある。早く四獣を連れてきてもらわなければ、お前もいつまでもこのままだぞ」

「でもユーゴがいるよ」

「それでは駄目だ。お前には王が居なければならない」

「ユーゴは?」

「俺は、……考えなくても良い。四獣を集め、王を迎える。それだけだ」


見覚えの無い部屋の中だった。私はふかふかとした寝台に横たわっている。映画の中でしか見たことが無いような、豪華絢爛ごうかけんらんな家具に囲まれて居心地が悪い。上から垂らされている、透けた布から向こう側が見えた。

部屋の中央に置かれた小ぶりな円卓を挟むように、女の子と男は、円卓の装飾と対になった椅子に座って話し込んでいる。

私の存在は完全に無視だ。


「あのー」


何だか、馬鹿らしくなって投げやりに声をかける。椅子を引く音がした。


「本当に、起きたのか」

「はい」

「何も理解しなくて良い。お前は今から言うことを守れ」


まるで初めて出会った時のように、黒い服の男───ユーゴさんは、私を見下ろした。


「ここはウンジョウ。俺はユーゴだ。お前は先程天寿を理不尽な形で全うした。拾ってやったからには」

「こちらの言うことを聞け……?四獣を集めろって言うの?」

「そうだ。……いや」

「違いましたか?」

「いいや、間違っていない。……記憶があるのか?」


ユーゴさんの言葉を遮ると、鳩が豆鉄砲を食らったかのように口があんぐりと開けられる。

やはり、間違いない。ここはウンジョウという場所で、私は死んだらしい。どうして、こう何度も死んでは生き返るのだろうか。

そもそも、私は元の世界で死んだはずだ。


「あります。ユーゴさん、私前の世界で死んだんですよね?記憶だと、ゼンって男に撃たれてこの世界で死んだはずなんですけど」


言葉にすると、体が震えた。

殺された。平和な国に生まれ育った私には、無縁だったはずの言葉だ。


「そうだ。そうか……そうなのか」


一人納得したように頷くユーゴさんは、初めて見る表情を浮かべていた。そのまま背を向けると、部屋から出ていってしまう。すると、その後ろから駆けてきた女の子が、寝台へ飛び乗った。高級そうなシーツ代わりの布は床へと落ちてしまう。土足のまま、寝台へと入ってきた女の子は、長い浅黄色うすきいろの髪をふたつに括って輪のようにしている。愛らしいが、誰がしてくれたのだろう。


「わーい!」

「うわぁ!……びっくりしたぁ」

「へへぇ。ミコは、特別なミコなんだね」

「私が?」

「うん。ミコ、いっつもルリのこと忘れちゃうから」

「るり?」

「るり。字はわかる?」


見ず知らずの女の子に抱き着かれた。よっぽど嬉しいのか、きゃっきゃと笑いながら話す内容はちぐはぐだ。

ルリ。そう言って自分を指差すので、どうやら名前のようだ。

記憶の中に、ルリという少女はいない。

水色の瞳がきらきらと揺れる。大輪の花を一輪頭に引っ掛けて笑うこの子を、私は知らない。


「ごめんね、ルリちゃんのこと知らなくて」

「んーん。ミコが帰ってきてくれただけでいいんだよ」


よしよし。そうやって私の頭を撫でられる。この子には、懐かれているようだった。何となく、申し訳なくなる。確かに記憶が無いのは事実だが、謎の罪悪感に背を押されて私は喋っていた。


「ルリちゃんは、文字が分かるの?」

「わかるよ。ユーゴが全部教えてくれるから」

「ユーゴさんが?」

「うん。この国のためだって」

「国?」

「そう。タイユウ」

「字、見せてくれる?」

「いいよ」


ぴょん、と音がつきそうなほど身軽に寝台から降りると、その辺を漁ったルリちゃんが、戻ってくる。手には、巻物のようなものが抱かれていた。

私も隙間を空けるように、完全に起き上がって、端へと避ける。

すると、ルリちゃんが、巻物を大胆に寝台の端まで広げた。


「地図?」

「そう、これがタイユウ。ルリたちの国だよ」


見たことの無い地形が描かれていた。何となく、配置と文字の羅列から、地図だと言うと肯定される。墨汁のようなもので全て記されているので、地図だと認識するのに時間を要してしまった。達筆な字で、最も大きく記された二文字。


泰曄たいゆう


知らない国だ。

地図の下に、さらにもう一つ紙が広げられる。こちらは、先程よりも拙い字が並んでいた。


「こっちはルリだよ」

「そう。瑠璃るり……こう書くんだね」

「うん!」


落書きなのか、お世辞にも上手とは言えない動物の絵のそばに、瑠璃と記されていた。お手本のように並ぶ綺麗な字は、地図の文字とよく似ている。


「これは、ユーゴさんが書いたの?」

「そうだよ。ミコはユーゴが好きだねえ」


達筆な字をなぞると、先程の珍しい顔が思い浮かぶ。ふふ、と笑うと瑠璃ちゃんもつられるように笑って爆弾を落とした。


「え?」

「昔もね、こうして見たんだよ。ほら、この文字はミコの」


瑠璃の文字が記されていた紙の一番端を瑠璃ちゃんが、指差す。上手くは無いが、滲んでいて読みにくい二文字。古びていて、よく見れば、紙の先端は焦げ跡を残して、千切れていた。


「……ミコ」


カタカナだった。この世界の人が知り得ないはずの文字。分かりやすくはなかった。けれど、ボールペンでも鉛筆でもなく、慣れない筆で書いたとしたのなら。

納得が行く。


「よしよし、泣かないで」


紙にもたれ掛かるように涙を流す私を先程とは違った表情で抱き締める瑠璃ちゃんは、全てを知っているようだった。

私だけが、なにも分からずにいる。


達筆な神子みこというユーゴさんの文字に並ぶのは、確かに私の字だった。

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