第5話

物語の世界ではないと、生温い返り血がどこまでも生々しく自覚させる。


「ぁ……」


恐る恐る拭った手のひらは、べったりと赤黒く染まっている。さっきまで、私を傷付けようとしていた妖怪のもの。朱雀すざくたちに助けを求めていた人の。

さっきまで、私と同じように生きていた生物いのちの血だ。


「おい、あんまり散らかすな」

うるさい。じゃあ貴方がやれば良かったじゃないですか」


褐色の男が、辺りを見渡してそう吐き捨てる。ねずみの妖怪を貫いた剣は、そのまま胴体をくように引き抜かれた。そのせいで、周辺の草木も地面も血だらけだ。神経質そうな男は、眼鏡を押し上げて苛立ちを隠さずに責める。この二人の仲は険悪なようだった。


「俺は、別に……」

「殺すつもりは無かった?まだ半端な事を言ってるんですか」

「もう一度言ってみろ、先に首を落とされたいか」

「まあまあ、お前達。とりあえず追っていた分は全て殺せたのだから、良いだろう」


間を取り持つように割って入った男は、先程笑みを浮かべていた人。本当に、人なのだろうか。それすらも怪しい。


(怖い)


得体の知れないものに、人間は恐怖を抱くという。

それならば、私がこの男に恐れる事はごく自然で当然な事で、おかしくは無いはずだ。

例え見た目が普通の人間のものだとしても。


「陛下がそのような態度だからこの男は──」

「化け物狩りの時は名前で呼べと言っただろう、リュウ」

「申し訳御座いませんでした。…………ゼン」


柔らかい物言いなのに、抗う事を許されないような重厚な威圧感に押し潰されそうだ。名を呼ばれたらしい眼鏡をかけたリュウという男は、顔に苦悶くもんの色を浮かべて訂正した。


「おい、逃したぞ」

嗚呼ああ。本当に残念だ」


名の分からない褐色の男は、その髪と瞳の色とは裏腹にどこまでも冷静なまま。その態度を崩す様子も無い。


まるで芝居を演じるように、両手を広げて大袈裟おおげさに回ったゼンと呼ばれた男は、私の目の前までくると、ぴたと動きを止める。返り血を浴びたまま笑顔を浮かべる様は、狂気すら感じる。


「……っ……」

「君のせいで、獲物を取り逃したとは、理解出来わかるか?」


その言葉に、すらりと伸びた脚の隙間から先を覗く。

目を覆いたくなるような凄惨な森に、一縷の望みをかけた。

けれど。

悔しい事に男の言葉通り、朱雀と應李おうりの姿は無かった。


(見捨てられた?)


二人には、少しだけ心を許しかけていた。私の命を拾い上げてくれた應李の。大丈夫だと言った朱雀の顔が、涙と共に頭から捨て落ちる。

異世界で、誰でもいいからすがれる人が欲しかった。この意味のわからない場所も現象も生き物も、理解などしたくないのに。どこまでも私を死に追い詰めておいて、生きてる事を理解させる。


当然だ。

そもそも親身に話を聞いてくれていただけでも幸運だろう。一度は拾い上げてもらえた命なら、何度落とされても、もう。


(惜しくない……なんて、言えない)


「はは。泣き真似も出来るなんて、器用な化け物だな」

「ち、違う……私は……!」

「私はね、嘘つきが大嫌いなんだ。反吐が出る」


言い訳のような物言いに、自分ながらに呆れる。どうしてこんなにも臆病なのか。

屈んだ男が、うっとりととろけるような微笑をたたえたまま、懐に手を入れる。そこから取り出されたのは、少し装飾が多いが───拳銃だ。指の腹で何かの仕掛けを回した音がした。目が離せない間にも、私の目尻からはとめどなく涙が零れ落ちる。


(泣くな、泣くな泣くな)


泣いている暇なんて無い。どうすれば良いのか考えなければ。

滴が首筋を伝うと、熱く痛みが広がって、首筋の傷をぼんやりと思い出せた。

妖怪に刺された傷だ。

その妖怪も、目の前の男達に追われ、逃げ切れずに、死んだ。


(助けて)


誰か、助けて。悲痛な願いは、声にはならない。

生を諦め切れずに悪足掻きをする私をせせら笑うように、額の中央──ここを弾が貫けば到底助かる道など無いだろう──へあてがわれた。


「ああ、たまがないな。使い切っていたのか」

「ゼン。俺のを使え」

「助かる。私の手は、なるべく使いたくは無かったんだ」

「……俺にやれと?」

「それなりの教養はあるだろう?穀潰しになりなくなければ。どうも後の公務を考えると、嫌に疲れてきてなぁ」

「こういう時ばかり、名を盾にするな」

「そういうお前こそ、名を隠す事ないだろう」

「黙れ」


カチャ、と音を鳴らした武器は、私の命を狩ることは無かった。ほっと体から力が抜ける。




────でも、生きてるだろ。




皮肉にも、折れかけた心を繋ぎとめたのは私を見捨てた彼らのかけてくれた何気無い言葉だった。

そうだ、生きている。

例え知らない誰かに死んでいるとか死を望まれようとも、私は生きていたい。

何も知らないこの世界で、生き続けたい。



もう迷いは無かった。



呑気に後ろを振り返って言い争う男達に、隙がないかを見定める。

二人は完全に私の事を視界から外している。


もう一人、眼鏡の男も先程あやめた妖怪の死体にまた武器を突き刺し、何かを抉り出した。

咄嗟に目を逸らしたが、こちらの男も大丈夫そうだ。

言い合いが盛り上がっている隙に、横目で先程の道順を確認する。


(出来るかは、分からない。でもやるしかない)


覚悟を決めて、また血飛沫が上がったその時に、飛び上がる。音が重なるように。息を潜めて、走る。走ること以外何も考えず、ただ我武者羅がむしゃらに鉛のように重い足を前へと。

聞こえたのは、私の荒い呼吸だけ。









追っ手は、来ていないようだ。背後から気付いたような声も、足音も聞こえなかった。


水面みなもに反射した私は、赤黒く染まっていた。道中に木の枝に引っ掛けたのか、深さの違う傷だらけで見る影もない。


「あぁ……」


不細工な泣き顔だった。泣くなと自分を叱咤しておきながら、逃げる最中に取り繕えない本音がこぼれ落ちたのか、横に線を引くように涙の跡が乾いている。

元の色も判別出来ないくらい汚れてしまった制服を着て、ボサボサの頭でしゃくり上げる少女は、紛れも無く私だ。私なのに、この世界は私以外のもの全てが残酷で、無慈悲で、偽物だ。

どうか、偽物であってほしい。


「助けて……誰でもいい。助けて……」


いよいよ声を上げて泣き出してしまった自分に、内心情けなくて堪らなくなる。

なんて弱い。なんて無力なんだろう。


應李のように恐れ知らずであれば。

朱雀のように人を癒せる力があれば。

何かが変わっていたのだろうか。


私の涙が落ち続け波紋を作ると、水面はいびつに波打っていく。

指先を水面下に沈めると、その向こう側から、鏡のように肌色が見えた。


「えっ……」


それは次第に輪郭を取り、大きくなっていく。まるで、人のような───────。



ぱんっ、と。



内側から弾けた。

何が起こったのか、理解が追いつかない。

一拍遅れて、身体の中心とふくらはぎに、感じた事も無いような激痛が突き抜けた。

熱した金属であぶられるてでもいるような錯覚すら起きる。


ひゅう、と掠れた音が喉から漏れた。

物凄くはやい何かに、体を貫かれた。先程までは私を写していた水面が血の波紋を広げる。

前屈みになったつもりが、重力に抗えずに水中へと飲み込まれた。


「たす、け────」




「手をわずらわせるな。生きる価値もない癖に」


すぐ近い場所。恐らく私が目を覚ましたばかりの時に横たえられていた辺りから、そう罵られた。

あの男の声だ。ゼンと呼ばれたあの男。


じゃあ、私は撃たれたのか。

逃げ切れたと思い込んで油断しているところを背後からすんなりと。

なんて、残酷な人。

希望を見せておきながら一気に絶望の淵に落とされる。


身体から血が抜けていくのが手に取るように分かるのに、手足の先から重く鈍くなっていく。

もう、意識を保っていることすら、叶いそうにない。長くはないだろう。

瞼を伏せた先で、宝玉のような二つの空色と視線が交わった。


「ィ─────」


い、だろうか。空気の円と共に吐き出された言の葉は。水中だから、音が上手く分からない。いいや、最後の足掻きのように鳴り続ける私の鼓動が煩いのだ。


どうか早く、静まれ。

楽にさせて、許して欲しい。


空と水に、涙が熔けて混じり合う。


それがミコと名付けられた私の。

呆気ない最期になった。

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