第2話
落ちる。
ユーゴさんに手を伸ばした時のまま、もがくように空中で手を、救いを求め続ける。
伸びた髪が風に任せ、引っ掻くように頬を激しく叩いた。息が詰まる。
際限も無く深淵に落ち続けて、視界が途端に白く染まった。
雲だ。綿菓子のような雲の隙間をねるように落ち続けて────どぼん。
最後に聞こえたのはその音。
また水だ。それも水中に落ちていく。
まるで意志を持たないかのように力の抜けた手足は水の流れに逆らわずに、どんどん見えない底へと誘われていく。
光を反射して波紋を広げ
あまりの痛さに声も出ず、自分でも泣いているのかすら、体を飲み込む水たちで紛れて分からなかった。
(どうしてこんな目にあわなきゃいけないの)
死んだとか、言うことを聞けだとか。理不尽な事を言われて、また殺されるのか。
なんて人生なのだろう。
最後に力を振り絞って伸ばした指先に、温度を感じた瞬間、視界がまた暗闇に染まり私の意識はそこで途切れた。
「……い、おい!目ぇ覚ませよ」
かなりの強さで頬を叩かれ、意識が浮上する。ヒリヒリと痛む頬や体の節々に、まだ生きていると実感した。
(いき、てる)
とんでもない高さから落ちたことだけは理解が出来た。間違いなく私は、雲のある高さから落ちたのだ。そして、訳が分からないまま空気が変わったことを感じた瞬間、そこは水の中だった。
けれど今は、背中にあたるゴツゴツとした感触に、ユーゴさんといた空間では無いことが分かる。
何より、ここは草の香りが強い。
「っゴホッ、……っぁ」
生を意識した途端に、喉の奥から込み上げる気持ち悪さに逆らえず。上体を慌てて起こして側へと吐き出す。
見たくもないが、見えた
胃には食べ物も入っていなかったようだ。
「うーわ……。派手にいったな」
そう言えば。ようやく引いてきた頬の痛みに、その一言で誰かの存在に気がつく。事態を認識するのに精一杯で忘れていた。
ざらついた低い声は、男の人だ。
顔を上げてみれば、容姿はユーゴさんよりはかなり歳若いように見える。
もしかしたら私と同い年か、それより年下かもしれない。やんちゃそうに跳ね返った短めの茶髪。顔の中心に傷跡があった。それさえ無ければ、人懐っこそうにも見える。
男の人と言うより、男の子といった雰囲気の人だ。きっちりとしていたユーゴさんよりもラフな格好で、粗めの麻のような布はちょうど腰あたりで、ベルトのような生地で纏められている。くるぶし程までの丈のズボンは伸縮性のありそうな生地だ。
けれどどれも、日本では馴染みの無い格好。
(もしかしてヤンキー!?)
「痛ッ!?」
慌てて後ずさろうとして、痛みに声が漏れた。そうだった。体中打ち付けたみたいなものだった。それにしては、打撲の跡も見えないけれど。
「おいおい、動くなって。今あいつ呼んでやるから」
「ヒッ!?」
伸ばされてきた手を咄嗟に避けると、対して気にした様子も無く、その人は立ち上がった。もしかして、そばについていてくれたのだろうか。
「おーい、スザク!出てこーい」
お前の大好きな怪我人だぞ。そう辺りに叫ぶ。聞こえてくるのは、遠くから聞こえる鳥のさえずりや木々の間を通り抜ける風の音だけ。反応は無い。苛ついた様子の少年に怯えつつも、体を見渡して、言葉の通り怪我があるかを確認する。少し痣になっている場所はあるが、血を流すような怪我はやはりしていないようだ。ほっと息をつく。
ユーゴさんのいた空間で見た光景はかなりショッキングなものだったから。
おっかなびっくり見回すと、座り込んでいたのはどうやら砂利の上のようだった。道理で、手をつくだけで痛む訳だ。
心地よいせせらぎの音の方角へ目を向けると、やはり小川が流れていた。目で追っていくと、見事な滝つぼが見える。あの辺りに、落ちたのだろうか。
「チッ。めんどくせぇ」
少年の舌打ちに肩が跳ねる。恐る恐る見上げると、彼は小さなナイフのような武器を手にしていた。よくよく見れば、ナイフとは言っても、削ったような荒い切っ先の黒い石だ。手元には、見るからにボロ布を巻き付けてある。それで、物を切るのは難しそうだ。
まるで、歴史の授業で見たような道具に一瞬どうでも良い思考が巡った。
しかしすぐに、何をしようとしているのかを思いついて、戦慄する。
ここには、この少年と私しかいない。
となると、このヤンキーのような見た目からしても、脅されて金品を要求されるのだろうか。私はほとんど何も持っていない。
そうしたら、どうなる……?もしかして。
(殺される!?)
「や、やめっ…」
「貸し1個だかんな」
仕方がない。そう言外に滲ませると、少年は迷うことなく
包丁やナイフのように、切れ味が良いとはいえないことは、私でもわかった。
それを力任せに引くと、剥き出しの腕から血が滴り落ちる。
「……ぁ……」
ほとんど声にならなかった。恐怖で、喉がひきつる。
どうしてこの少年が、自分を傷付けたのか分からない。
一滴、二滴と滴って、小さな血溜まりを小石たちの上に作る様子を
「来たか」
少年は満足そうに笑って、武器に付いた血をベルトに挟んだ別の布きれで拭うとさっとしまい込んだ。
背後で、砂利を踏み締めた音がする。
振り返る前に、この場に似つかわしくない柔らかな怒り声が飛んだ。
「オウリ!また自分で切ったの!?」
「だって呼んでも来ねーんだもん。血の匂いがしたら早いだろ?」
「待てばいいんだよ!もう……俺は、そういう傷を治すのは嫌なのに」
頭上で繰り広げられる会話で、先程からそばに居る少年の名前が『オウリ』という事は分かった。背後からする声は、言葉とは裏腹に柔和で耳馴染みが良い。オウリと同じほどの少年のようだ。
何故か、ほんのりと背中があたたかい。
(知り合いを呼ぶために切ったってこと?)
オウリという少年の不可解な行動の理由が気になって。ちら、と振り返ると、不思議な彩色の大きな瞳と視線がぶつかる。
青とオレンジが溶け合うような綺麗な目だ。
と思いきや、次第にそれが潤んでいき大きく見開かれた。
「ひっ、人ーーーーーー!!!!」
ほとんど悲鳴だった。
少年だと思った生き物は、目にも止まらぬ速さで
背中から左右へと大きく広がる
尻尾のように伸びた先端で、赤からオレンジに揺らめく炎は、本物みたいだった。
「どーどー。スザク。こいつ空から降ってきたから」
「ほほほほほんとに!?!でもっ、この子、ヨウキが無いよ!?」
「人なら死んでるだろ。なんか変な服着てるし、匂いもしねぇしよー。スザクなら分かるだろ?」
「た、確かに……。でも……うぐぐ」
スザクと呼ばれる謎の生物が私を警戒して怯えているようだった。
(普通怯えるのはこっちじゃない!?変なの生えてるし!)
あうあうと眉をこれでもかと下げて地面に近付いては浮かんでを繰り返すスザクに、痺れを切らしたオウリが高く跳び、スザクの足を掴まえた。
よく見ると、足も人のそれではない。
「鳥……?」
「ひっ……!喋った」
「喋れる妖怪なんだろ」
膨らみのあるズボンはオウリのものよりも少しだけしっかりした生地のようだった。ぶかぶかとしているものの、所々に見える鮮やかな赤はオウリのそれらには無かったものだ。
膝下でキュッと絞られている。そこから覗くのは肌色ではなく、くすんだ黄色い鳥の足だった。鱗のように節がある。
(何……?)
「あ、あの……名前はありますか……?」
オウリの後ろに隠れながらスザクと呼ばれた生き物に問いかけられる。
────ミコ。
「ミコ」
考えるより先に、そう告げていた。
ユーゴさんに伝えられていた名前だ。そう気付いた時には、もう遅かった。
目の前の1人と1匹の目が不審そうに細まる。
「質問を変えますね。貴方は、人ですか?それ以外ですか?」
ゆっくりと歩を進めてくるスザクは、先程とは違いまっすぐとこちらを見つめる。
どうして名前を言っただけでそんな反応をされるのだろう。
「人、以外がいるの……?ここって」
「はあ?」
「はい?」
きょとんと。丸まる目玉に、敵意は無かった。
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