免罪符
米山
免罪符
「かまへん、かまへん」
母は言った。「そないなことで怒れへん」
俺は根っこから首を傾げた。母はとても短気な性格をしており、小さなこと一つ取り上げては、けったくそ悪いだとか阿呆くさいだとか、兎にも角にも何かに対して剥き出しの怒りを露見させておかないと気が済まない性質なのだ。近所の子供たちにはイノシシ婆と呼ばれ恐れられているらしい。ふふ。
そんな母が――食事をするのが遅いというだけでキレ散らかす母が、その怒りを収めたのだ。俺は息を呑んで腰を抜かした。
「どうした、おっかあ。大丈夫か?」
思わず俺は母に問いかける。「何が?」と母はきょとんとした顔でこちらを見る。怒りを収めたというよりも、怒りの拠り所を失ってしまったというか、怒りを忘れてしまったと言った方が正しいような反応だった。
「ところで、時計は大丈夫なん?」
母は時計を指差す。そろそろ家を出ねば朝の定例会議に間に合わぬ時刻だった。俺は財布を探すのに手間取って、ギリギリの出発時刻になってしまう。
キーを回してエンジンをかけようとしたところで俺はふと気がつく。いってきます、と母に挨拶をしていなかった。俺はさっと後ろを振り返る。いつもなら車庫まで追いかけてくるはずの母の姿は見えない。くわばらくわばら、と呟いて俺は車を発進させる。
出社して早々、上司に呼び出される。その場には上司の上司もいた。どうも役職が上がっていくごとに頭皮は弱っていくらしいぞ、と自身の将来を懸念していると、何やら並々ならぬ雰囲気であるらしいことに気がつく。
「君か、云云かんぬん」
「云々かんぬん」
「云々」
俺は平伏して謝罪する。「かんぬんかんぬん」と上司とその上司は俺が犯したミスについて話し合っている。あの事か、この事か。俺は地面に頭をつけたまま行く末を見守っていると、どうも俺の過失で今取り扱っている商材の取引が二、三日頓挫してしまったらしい。先方はかなりお冠の様子で、上司二人の表情はとても剣幕であった。後日、この上司と共に先方へ赴き頭を下げるのだと思うと、がくりと肩が落ちた。
「君」
上司の上司が俺に呼びかける。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
俺は頭を地べたに擦りつけて謝罪する。粘着質でプライドの高い上司のことだ、いったいどれほどの罵詈雑言が飛んでくるかと身構えていたが、その場に流れるのは気持ちの悪い静寂であった。
「ごめんなさい」
俺は相手の顔も見ずになお謝罪を続ける。すると、今のは演劇の一部だよ、とでも言わん風に上司は言った。
「なにをしている。もうそのことは済んだろう。いいよ、構わんよ」
それは何かに対して呆れるような、嫌悪感を示すような語調ではない。粗相を起こした我が子を嗜めるように気さくで安直的なものだった。上司の上司も、概ね上司と同じような反応をしている。暖簾に腕押し、豆腐にかすがい、ではないけれども、なんだかどうも俺だけ空回りをしたような気分になった。けったくそわりい。
「いえ、でも」と俺が口にすると、上司は面倒くさそうにこちらを一瞥するだけだったので、その場をなるべく穏便に済ますため早々に失礼した。
「やい、お前。とんでもないヘマをしでかしたらしいな」
俺が席に着くなり同僚は言う。「それにしては、いつもの怒声が聞こえてこない。上司はどうした? この間の健康診断が堪えたんやろか。あんまり血圧上がると大変だからな。それにしても、上司の奥さんが」
同僚はそこまで言いかけてやめる。口が阿呆みたいに開いている。同僚の目線を追うと、どうやら社内で随一の美貌を持つ事務に見惚れているらしかった。「彼女、美しいよなあ。まだ結婚していないらしい。よし、ちょっくら声でも」と言って彼は誘蛾灯に釣られるが如くよろよろと歩いていった。
俺は何となく尻が落ちつかなかったので社外のひっそりとした喫煙室で煙草をふかした。最近はどこへ行ったって煙草を吸えやしない。会社の偉い人が名のある嫌煙家らしいので弊社の禁煙も時代をさきどるように施行された。まったく、難儀なことだ。
俺は特に何を考えるわけでもなくただ時間を潰すためだけに煙草をふかした。
「早く結婚せんとなあ」
俺は一人斜め上の台に構えるテレビの野球中継を見ながらつぶやく。もうすぐ二十代も終わる。いつまでも実家でのうのうとしているのは良くない。
麦酒のおかわりを頼んだはずが、未だ来ない。店主を大声で煽る。店主は一瞬ムッとした表情をするが、すぐにジョッキを俺の前に差し出す。ついでに枝豆も頼んでやった。
背もたれに身体を預けると、自分が随分酔っぱらっていることに気づく。ああ、そういえば母に連絡を入れていなかった。今頃ひとりで夕餉を貪りながら喚き散らしているに違いねえ。まあ、いい。知ったものか。相手がいなくても罵倒の言葉に事欠かないのだから、俺がいてもいなくても変わらんじゃない。面倒ごとは避けたいので母が眠る時刻を見計らって帰宅しよう。それでも翌朝が面倒なことには変わりないが、今日みたく急いで出社してしまえば良いのだ。
それにしても、母の様子はおかしかったと首を捻る。上司のように、健康診断か何かで身体の悪いところでも見つかったのではあるまいか。まあ、腫瘍の一つや二つ持ち合わせていた方がかえって母には丁度良いのかもしれない。
俺は自由の効かない腕でジョッキを持つと、するりと指から傾いてジョッキが抜けていく。あれま、おっと。俺はそれを持ちなおそうとしたが、結果的に隣の客に麦酒をぶちまけることになる。わざとじゃないんですよ、ね。俺は隣を見る。ああ、なんてこわもて。その男はぎろりとこちらを見る。
俺は蛇に睨まれた蛙ようにびしりと固くなる。酔いがすうと引き冷や汗に変わっていくのが分かる。どう見ても、堅気の人間ではない。頬に切り傷がある人間なんて、ヤクザか賊、警察官が関の山だ。ひひ。
「すみません」
俺は咄嗟に声を捻る。今日何度目の謝罪であろうか。チラリと目を上げると、その隣の露出狂紛いの女性にも麦酒を浴びせてしまったらしかった。これはもういよいよどうにもならないぞ、と俺は思い始めた。もし金で解決できるものなら儲けものである。
男はのそっと立ち上がり、俺の目の前に来る。ああ、高そうなスーツ。しかし、男は店員からタオルを受け取るだけだった。「別に、構わん」と男は言う。な、美咲もそうやろ。随分耳から遠い言葉のように思えた。俺は許されたのか? あとで何か裏があるとか、そういうことなのではないかと男の顔を訝しげに拝見するが、男は虫に刺された程度のことにしか思っていないような顔であった。なんと心の広い漢だ。日本男児かくあるべし。
俺はへこへこと軟体動物のように身体をくねくねしながら会計を済まして、男に金一封を授ける。さっさとこんな場所からは立ち去りたかった。俺が出口から左様ならしようとすると、「ちょっと待てい」と男から声がかかる。そうらみたことか、と俺は腹をくくった。
「こんなもん受け取れん。返すわ」
男は言った。これ以上一切の関わりを断ちたかった俺は、その金を受け取ってそそくさと立ち去った。何か俺が――いや、悪いことをしたのは確かなのだが、それ以上にとんでもない悪事を働いたように思えた。まるでコソ泥が逃げ出すように、俺は乗ってきた車を置いて一目散に駆けだした。
翌朝は居酒屋に置いてきた車を取りに行くために早めに家を出た。母は、何も言ってこなかった。好都合。
それにしても、ここ最近肝を冷やしてばかりだと思うが、実際には何事も起こっていない。自分の心配のし過ぎ、杞憂とかそういうのではないだろう。母から始まって、上司、上司の上司、居酒屋の兄貴。俺はみなそれなりの狼藉を働いてきたはずだが、何だか許されてしまっている。俺には人に許しを請う才能でもあるのだろうか、と思いながら取引相手への謝罪へ行った際も、やはり簡単に済んでしまった。いよいよ、これはおかしいぞ。
俺は試しに同僚の肩を一発殴ってみた。それなりの、果物を押し潰すくらいの、後からじいんと痛みが残るタイプの殴打だ。「いってぇ」と同僚は言う。同僚は先ず驚いてからその皴を徐々に眉間に寄せていくが、俺が「ごめん」と一言謝罪するなり、その皴は行き場を失って「まあ、そういうこともあるよな」と立ち去って行ってしまった。そんなことがあるものか。もし俺が同僚の立場であったのなら三発は殴り返している。
それから俺は上司の机にわざとぶつかり書類をぶちまけた。この間誰かが同じようなことをして頬がこけるほど怒鳴られていたことを思い出す。あの時は内心ほくそ笑んだ。
「すみません」と俺は先手を打つ。するとやはり、と言った方が正しいか、上司は長時間サウナに浸かったような顔をして「構わん」と言う。俺はその場を後にする。
間違いない。訳が分からぬことであるが、俺は誰に何をしても許される。
丁度、美人の事務が私の側を通りかかるところだったので、これみよがしに乳を揉んでみる。「わざとじゃないよ。すまないね」と俺が言うと、彼女はにこりと礼をして立ち去って行った。俺はその後をつけ、誰もいない資料室に彼女を連れ込んで犯した。ごめんな、と一言授けるだけで彼女はいとも簡単に身体をあずけた。
万事、うまくいく。
行きつけの飲み屋にツケがたまっていたな、と思いだし、その居酒屋で軽く一杯やって「あの時のツケはさ、これで勘弁してくんねぇかな」と千円札を一枚出すと、店主は二万円分のツケをあっさりと解消させた。母親はたった一言謝るだけでその煩わしい口を閉口させたし、会社でも、すみません、すみませんと言っていればまず間違いは起きなかった。何をしても許された。次第、オフィスには俺の煙草の匂いが染みついていった。
俺には野心というものはないが、それなりの日々を豊かに暮らしたいという人並みの俗っぽい欲望は明らかに強い。俺の天性は、まさに好都合だった。俺はとかく自分が幸福になり、他人に不幸を押し付けまくった。それも一人や二人でなく、多くの人間に。むしろ、積極的にできるだけ多くの人間に不幸を浴びせてやろうと思った。分散させてやるのだ。金に困れば人の財布を盗んで謝罪したり、エゴイズムな募金活動をしたり。性欲を持て余せばそこら辺の女を引っ掛けた。むしゃくしゃすれば人を殴った。又、俺は自分の性質をより理解していたので、面倒ごとを避けるために責任が個人に留まる範囲でしか人を陥れなかった。人の目につくような大きなことには手を出さなかったわけである。誰一人として、俺を許さない人間はいなかった。ヤクザも、警察官も、愛想の悪い店員も、美女も、爺も、ませたガキも、猫も、カラスも、偶々通りかかっただけの通行人も、誰だって俺を肯定する。
俺が許しを請うのではない。俺が俺を許す権利を与えてやっているのだ。
仕事を辞めるまでそう時間は掛らなかった。俺が欲しいものは大抵何でも手に入るのに、どうして会社勤めなんてする必要があるのか、と。そして、時間は掛かったが、結婚もした。結婚相手は数百回のナンパを繰り返した後に見つけた運命の相手。はは、青天井だものな。
一路順風順風満帆。望月の欠けたることもなしと思へば。
都心の一等地に住み、日がな一日適当に過ごす。別荘も幾つか購入し、自然を浴びたくなればそこを訪れた。湯治も好み、各地の温泉を妻と回った。うまいもんを食って滋養を満たし、性欲が高まればやはりその辺の女を引っ掛けた。白昼堂々の不倫である。海外旅行にも何度か行った。金は腐るほどあった。
遊び呆けて皴の少ない道楽者となり果てると、突然神託みてえに家庭が恋しくなる時がある。俺は子供を授かり、一つの家庭を築いた。幸せな日々だったが、その辺りから俺は人生における意味みたいなものを模索し、又、見失い、絶望した。空虚な閉塞感が俺を支配して、結局のところ俺は誰かに裁かれたかったわけだと得心がいった。なら、謝らなければいいじゃねえか、という簡単な話でもなく、俺の虚弱な精神はどうやら口先から根を張ったようで、もう取り返しがつかないくらい俺の芯に絡みついていた。どうにも、どうにもならない。ここいらが人生の潮時なんだろう、とそう思った。
久しぶりに母がいる実家に赴くと、母は随分とくたびれているように見えた。母は早くに旦那を亡くし、女手一つで俺を育てたマーガレット・サーチャーみたいにタフな女であったが、歳月というものは誰にでも平等に流れるのであって母も同様、人間が辿る衰弱の一途を例外なく追従していた。何でもないことで怒りを発露する性格は変わっていないのだが、まるで覇気がない。小さくもごもごと話す母はもはやただの豚婆であった。
俺は母の作る夕餉を食べて、風呂に入り、中坊の頃から使っていた自室の机の前に腰掛けた。明かりのない部屋に五月の風が吹き込んでくる。俺はライトスタンドをつけて筆を執った。
先立つ不幸をお許しください。
俺の背後で母は言った。
「かまへん、かまへん」
免罪符 米山 @yoneyama
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