エージェンツ!

@sakanatonic

第1話

 ニューヨーク・マンハッタン。世界の富が集まる半島は、ミリオンダラーマンションがひしめく大都会。日本円にして億単位の金で売買される不動産取引は、エージェントが仲介する。

 マンハッタンで活躍するエージェントは、本人たちも億単位を稼ぎ出すミリオンダラーエージェントだ。資格さえ取得すれば無一文でも始められる職業に、億単位の成功が望めるのだから、アメリカがチャンスの国というのは本当なのかもしれない。

見える物件すべてが億ションと言っても過言ではないマンハッタンで、ここ最近で一番注目を集めているのは、古くから人気の閑静なアッパーイーストサイドという地区の、フィフスアベニュー沿い新築マンション。セントラルパークの景観を臨むバルコニー付きという贅沢な十五戸のマンションは、ペントハウスを除き、売り出し価格が九ミリオン(九百万)ドルで統一されている。

 売り手エージェントはアーサー・ハリントン。この土地を買い、このマンションを建てたのも、アーサーだ。

「希望物件は、七階のA室。公園向きのバルコニーがある部屋です」

 交渉目的である七階と同じ間取りの九階の部屋で、二十六歳の不動産エージェント阿比留翔太は、アーサーを目の前に汗で掌が湿るのを感じていた。

(三月のまだ肌寒い時期なのに、こんなに汗をかくとは思ってなかった)

アーサーはニューヨークの不動産業界では有名人だ。三十二歳にして彼の不動産会社ハリントン・リアルエステートを開業し、すでにいくつもの高級マンションを建てて全戸を完売させ、エージェントオブザイヤーを二度受賞している。

 その知名度に拍車をかけるのが、彼の美貌だ。こげ茶色の髪と深緑の瞳、モデルも羨む精悍な面立ちと、ととのった体躯が人の目を惹きつける。不動産系雑誌やコラムで何度も見たアーサーは、実物だと美貌の上に迫力があった。

(まるで、鷹に挑む雀の気分だ)

 口内に溜まった唾液を飲み込み、翔太は心の中でそう呟く。駐在員の賃貸サポートを主な収入源とする日系不動産窓口の駆け出しエージェントの自分は、自ら獲物を食らいにいく鷹のようなアーサーと比べてしまえば、道端のパンくずを喜ぶ雀のようなものだ。

(こんな交渉、もう二度とできないかもしれないんだ。ビビってる場合じゃない)

 翔太は、静かに気合を入れなおし、アーサーをまっすぐ見る。大き過ぎず鋭すぎない、自信に満ちたアーサーの双眸も、翔太を見据えている。

「アビルさん。先に伝えておきますが――」

 名を呼ばれ、翔太は小さく驚いた。苗字の阿比留は、綴りのせいでアメリカ人にはうまく発音してもらえないことが殆どだ。なのに、アーサーはさきほど自己紹介した通り、阿比留というトリッキーな名を綺麗に発音した。

 貴族のような家柄で、知的で勇猛なアーサー・ハリントン。ニューヨーク不動産業界の貴公子。美しいカリスマエージェント。そんな、派手な肩書きがいくらでも並ぶ男なのに、アーサーは翔太を対等な目で見ている。

 翔太が驚いたのが、アーサーにも伝わったようだ。何に驚いたのかわからず、アーサーも少しだけ表情を緩めた。だが、すぐに自信に満ちた表情に戻った。

「値引きをする気はありません」

 四寝室を含めたロフト型、モダンで贅沢な内装に、街並みに溶け込むオールドファッションな外装の新築マンションだ。九ミリオンという価格に値引き交渉の余地はほとんどない。この交渉に向けて翔太も似たような条件のマンションを調べつくしたけれど、合理的で隙がないと言うしかない価格だ。

 けれど、翔太のクライアントにも意向がある。

「クライアントの希望価格は九ミリオンより下です」

 自分の家を探しにきたのではない。クライアントの希望をできるかぎり忠実に通すのがエージェントの役目だ。翔太がクライアントに言われたのは、最高八、二ミリオン。値引きの可能性は低いと伝えてはいるけれど、自分のクライアントに満足してもらうのが役目なのだ。

「希望価格を聞いておきましょう」

 八、二ミリオンよりさらに低い値段から始めて、カウンターのやりとりで八、二に近づけるのもセオリーだ。けれど、まず八、二という数字自体が厳しいはずだから、アーサーを苛立たせて交渉を続けるほうが不利になる。

 翔太が考えてきたのは、アーサーを驚かす方法だ。

「七階より下の階にも、まだ空きはありますか」

 購入申し込みは今日の朝一番から始まった。七階以外すべて埋まっているなんてことはあり得ない。

「六階と四階、二階も空いています。階が下がっても値段は下がりませんが」

「実は、僕のクライアントは二戸欲しいと言っています」

 申し込みが殺到したとしても、今夜まではどの買い手とも完全な契約を結ばないはず。相手の出方など知る由もない翔太にとって、二戸目について先に伝えないのは大きな賭けだった。

 世界中の富が集まるマンハッタンだけれど、九ミリオンのマンションを二戸同時に買おうなんてクライアントはそうそういない。これが、翔太にとって人生最大の交渉になるかもしれない理由であって、また、さすがのアーサーも驚きを表情に映している。

「できれば上下並びの六階、七階、どちらもA室」

 小さな不動産窓口の無名エージェントがこんな話を持ってくるとは、対等に扱ってくれようとしているアーサーもさすがに予測していなかったようだ。翔太だって自分でそう思うのだから、この賭けは間違っていなかった。

 このまま押せ。翔太にはもう一つ、アーサーを驚かすカードがある。

「二戸ともに、八、二ミリオンが希望価格です。全額、キャッシュで」

 言いきったとき、翔太の背中が小さく震えた。目の前にいる鷹は、雀の切ったカードに、ととのった目を見開いている。

 一世一代の大博打。後がない翔太の覚悟を決めた表情に、驚きから立ち直ったアーサーが不敵な笑みを返した。


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