第292話 脚休め 9

 「なるほどね。けどそれなら、きみが商う場所を選べばいいのではないかな。石段通り以外の場所であれば、冥府に縛りなどはないはずだよね。あれだけ巧妙に陣を敷けるのに、なぜそうしないの。」


 ゆいの口調は非常に穏やかで、問いかけているふうであるが、少し顎を上向け生意気そうに男を見つめる冷たい瞳を見れば、分かる者にはすぐに分かる。


 何かが酷く気に障ったのだろう。

 答えなど分かり切っていながらあえてゆいは、冷ややかに男を嘲っているのだ。


 「こちらにも、色々と込み入った事情があるのですよ。それにしても、陣・・・とは一体何のことをおっしゃっておられるのか。」


 案の定、小男はさきほどよりも更に不機嫌に顔を歪ませ口ごもり、そのまま話を逸らそうとしている。


 つまり、この男は冥府の深淵で好き勝手生きることができるほどの力を持ってはいないのだ。

 あおの威光に守られたこの場所でのみ、この男は思うがまま振る舞うことができるのだろう。


 とぼけた男の言葉に、ゆいはたじろぎもせず「ハハッ」と笑った。


 「きみは私を馬鹿にしているの?小部屋の床に随分と丁寧に陣を敷いていたじゃないか。」


 実は、これにはゆい海神わだつみあおの三人が気づいていた。


 真也しんやたち四人は気づいていなかったが、それは暗がりだったからという単純明快な理由からではなく、恐ろしく面倒な術によって、その陣が丁寧に隠されていたからに他ならなかった。


 男は見破られたことにぎょっとして一瞬目を見開いた。

 この陣を見破ることができるということは、つまりその者が自分を遥かに凌ぐ強大な力を有している者だという事実を赤裸々に示しているのだ。


 しかも、これほど複雑に隠された陣を一瞬で見破れるような者など、未だかつて出会ったことどころか、聞いたことすらない。


 冷たい汗が男の背をひやりと流れた。

 ゆいが、いっそ儚げにすら見えるほど幼く、極めて小さな愛くるしい生き物の姿であることが、男をさらにぞっとさせる。


 ここまできてしまっては、いまさら「帰れ」というわけにもいかないではない。

 この生き物を怒らせることだけはしてはならないのだ。


 ほんのわずかな合間に、男は思考を振り絞り、ついに極めて自らに都合の良い答えを掴み上げた。


 化け物じみた力を持つ者を引き込んでしまっていたことに驚愕はしたが、ただそれだけのことだ。

 この者たちがここに害をなすものでなければ、結局のところ何の問題にもならない。

 むしろこちら側に引き込んでしまえれば、今後これほど心強く、頼れる者はいないのではないか。


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