第206話 湯の桶
見慣れない巨大な屋敷の、中庭のような場所に座り込んだ翡翠と久遠は、呆然と辺りを見回した。
「彼呼迷軌だ。・・・・・すまない。了承を得ず、強引に私の転移に巻き込んで連れてきた。慣れない者は気分が優れなくこともある・・・・大丈夫か。」
久遠も翡翠も若干身体がふらつきはしたが、吐くほどの気分の悪さはなかった。
「海神・・・・お前なのか?」
ふいに屋敷の中から響いた、なまめかしい女の声に、久遠と翡翠は振り返った。
「お前・・・・人の子を連れてきたのか。馬鹿なことを・・・・」
「白妙・・・・。悪いが二人をお前に預けたい。」
海神の突然の言葉に、白妙は表情を険しくした。
「お前、正気か。人の子の命は短い。我らと共には生きていけないのだ。わかっているだろう。」
「・・・・頼む。」
白妙は、大きく一つ息を吐いた。
真面目で表情をあまり表に現さないこの海神という男が、軽薄な者でないことは、彼を導いてきた白妙が誰よりも深く理解している。
蒼の妖鬼の生み出した誤解によって、自分に恋慕の情を抱いている海神は、若輩の身である自らの未熟さを恥と考えているのか、白妙にものを願うことは皆無と言っていいほどなかった。
その彼が「頼む」と口にしているのだ・・・・・恐らく相当の理由があるのだろう。
白妙は袂から清潔な布を二枚取り出し、二人に
「濡れネズミではないか・・・・衣を変えねば風邪をひく。・・・・海神、お前もだ。それで足をぬぐい、湯殿へ行って二人で身体を清めてこい。」
海神はほっとした空気をまとわせ、白妙に小さく頭を下げると、久遠を連れ屋敷の中へと入っていった。
残された翡翠は心細げに、去っていく久遠を見送る。
白妙はその様子を温かいまなざしで見つめ、クスリと笑った。
「取って食ったりはせん。お前はこっちへおいで・・・・。可哀そうに・・・・このまま湯につかれば痛む。」
いつの間に用意されたのか、縁台に桶と手ぬぐいが置かれ、ほのかな湯気を漂わせていた。
歩みよってきた翡翠の細い腕を、白妙は白くしなやかな指でやんわりと掴み、泥にまみれたその手を、嫌な顔一つすることなく握りしめた。
指先を襲う鋭い痛みに、翡翠は思わず顔を歪める。
暗闇と緊張で気づかなかったが、土を掘り返した際、翡翠の手は酷く傷つき爪の何枚かは剝がれかけていたのだ。
白妙に握りしめられた翡翠の手は、温かい光に包まれた。
瞬く間に痛みが引いていく。
剥がれかけていた爪は元の通り収まり、細かな傷や転んで熱を持っていた膝も癒されていく。
白妙は桶の湯の中へ翡翠の手をつけると、優しく洗ってやった。
「痛みはないか。」
あっという間に泥水に代わってしまった桶の湯を庭の隅へ流すと、空になった桶の中に再び透明な湯がこんこんと沸きだし、桶の内を満たしていく。
不思議な桶や、あまりにも優雅な白妙の一挙一動に思わずみとれていた翡翠は、泥だらけの自分の足に白妙が手をかけたところで、ハッと我に返った。
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