第207話 変化 1

 我に返った翡翠ひすいは、白妙にあまりにも無礼なことしているのではないか・・・・と思い至り、泥の足に触れる白妙しろたえの雪のように白い手を慌てて止めた。


 「ありがとうございます。・・・・後は自分でできますので。」


 気の毒なほどうろたえた様子の翡翠に、白妙は束の間、「おや」という表情を見せたが、すぐにまた微笑みかけた。

 「必要ない」と、なんでもないことのようにさらりと言って、さっさと泥だらけの翡翠の足袋を脱がせてしまう。


 新しく張りなおした桶の湯の中に翡翠の足を浸し、丁寧に洗い流しながら、白妙は霞のような儚い笑みに、かすかな寂しさを漂わせた。


 「・・・・・・海神のことだ・・・どうせ言葉の足りないまま、お前たちを強引にここへ連れてきてしまったのだろう。・・・・すまなかったな。・・・・・・冷淡に見えるやもしれぬが、あれは酷く思いやりの深い男なのだ・・・・・。悪く思わないでやって欲しい。」


 まだわずかに揺れ続けていた翡翠の脳裏を、海神の美しい顔がかすめる。


 冷淡な外見の印象とは裏腹に、海神は常に自分たちを思いやってくれていた・・・・・。

 泥から久遠くおんを掘り出す時も・・・・・。

 久遠の父に襲われた時も・・・・・。

 翡翠と久遠を安心させようと、不器用に微笑みを見せてもくれたのだ・・・・・。


 それに・・・・・既に奪われてしまった命や、水底へ沈みゆく町などは、彼にはもはやどうしようもないことであったのだろうに、出会ったばかりの翡翠の目にすら明らかなほど、海神は責任を感じ、ひたすら傷ついていた。


 「・・・・・海神様が、とても慈悲深く、情の厚いお方であること、深く感じ入っております。・・・あのお方無しに、私たちは生き延びることなどできませんでした。感謝を尽くしても足りないほどなのです。」


 微笑み返してきた翡翠の言葉に、白妙はホッとして息を吐いた・・・・・・。


 白妙にとっての海神は、人でいうところの我が子のような存在だ。

 水神殿を司る者として取り仕切ることができるようになるまで、幼かった彼を常に傍らで見守り、育ててきたのは他ならぬ白妙だったのだから・・・・・。


 出会ったころから周りの者との関係を築くことが不得手だった海神は、ほとんど笑顔を浮かべることがなかった。


 龍粋りゅうすいを継ぐ者として、値踏みをするような視線にさらされている時も、揉み手で近づいてくる馴れ馴れしい者の前でも、冷たい表情やそっけない態度が変わることはない。


 海神がその心の内をさらすのは、白妙に対してだけだった。


 白妙は、海神の見せる凍てつく仕草の奥に、彼自身と周りの者を傷つけないための本音が隠されていることを知っていた。

 ・・・・・だからこそ白妙は彼に、「周りの者にもっと温かい態度で接しなさい」と、諫めることができなかったのだ。


 それに・・・・・・自分にだけ、温かい表情を見せてくれるころを、心から愛おしく思っていたのも、事実だった。


 だが、海神が青年へと成長し、水妖の頭目として水神殿を取り仕切るまでになると、その関係は微妙に形を変えていった・・・・・・。

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