第202話 芍薬 2

 翡翠ひすい久遠くおんの衣を掴んで離さないまま、海神わだつみに深く頭を下げた。

 翡翠に寄り添う久遠も恭しく礼を取る。


 「助けていただいたこと、心より感謝しております。・・・・あなた様は、神様・・・なのですよね?」


 「・・・・人が奉るものを神と呼ぶのならば、間違いではないだろう。私は、神妖と呼ばれる、こことは異なる世から来た者だ。」


 言っていることの全てがわかるわけではなかったが、翡翠も久遠も、この美しすぎる男が、やはりこの世ならざる場所から来た者であることを理解した。

 不安げに瞳を揺らしながら、翡翠は確認しておきたかった言葉を口にする。


 「久遠にはもう、危険はないのでしょうか・・・・・」


 翡翠の問いかけに、刹那、海神は表情を曇らせたが、そのことが翡翠と久遠に対して不誠実なものであったと思ったのか、「すまない。」と、小さく謝罪の言葉を口にした。


 「安心していい。あれは完全に・・・・亡き者となった。」


 海神は二人を安心させたくて、冷淡な美しいその顔に無理やりわずかな笑みを浮かべた。


 「・・・・・我らの世では、言葉は魂と深い繋がりを持つ。妖力に大きな差がある者の場合、弱い者が強い者の名を呼べば、圧力に耐えきれず魂がくだけ散って消滅してしまうのだ・・・・・。あれはそうして消えた。・・・・お前たちはもう、何も恐れず、好きに生きていい。」


 翡翠の心はささくれを引きはがされたように、鋭く痛んだ。


 翡翠の目に、海神の手に強く握りしめられたままの紫のかんざしが映る。

 海神は微笑みを浮かべているが、自分たちにとっては恐ろしい者でしかなかった流が、海神にとって大切な者であったことは見ていてわかった。

 その死を悼みながらも笑顔を作るのは、どんなに辛く寂しいことだろう。


 自分の傍に久遠がいてくれるように、この優しい人の傍らにも、大切な人があるのならいいのに・・・・。


 痛々しい海神の微笑みに、そんなことをぼんやりと想っている翡翠の耳に、久遠の前触れのない声が飛び込み吹き抜けていった。

 あまりにも現実味のない久遠の言葉に考えが追い付かず、翡翠は思わず聞き返した。


 「久遠?今・・・・・なんて?」


 「私たちを共に連れて帰ってもらえないかと・・・・この方に、そう頼んでいるのだ。」


 やはり翡翠の聞き違いでは無かった。

 久遠は海神とともに行きたいと言っているのだ。


 「翡翠・・・・・私にはもう、ここで穏やかに生きることは叶わない。私の父は私の身代わりに、お前を殺そうとしたのだ。私は絶対に父を許すことはできない・・・・・それに・・・」


 「それに・・・・?」


 「私の一族は呪われている。私がここにいれば、呪いの連鎖を断ち切ることはできないだろう。」


 「それは、どういうことだ。」


 聞こえた問いかけは翡翠のものではなかった。

 海神が険しい表情で久遠を見つめている。


 「翡翠と入れ替わる少し前のこと。流と私の父の話を偶然耳にしました。・・・・あれは、私の父ではありません。中身が入れ替わっているのです。そしてそれは恐らく、遠い昔から繰り返されている・・・・・」


 「久遠?」


 「我が一族の長となるものは、ある者の器となっているようだ。その者が、代々の長の身体を継いでは意識を食い尽くし、生きながらえてきている・・・・・。次の器は、私だ。」

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