第196話 消えた久遠 1
久遠の手にした湯飲みが傾き、翡翠の雪原のように真っ白な装束の膝のあたりに、紫色の濃い染みを作った。
小さく「ぁっ」と声を上げた翡翠を久遠が慌てた様子で立ち上がらせると、紫はさらりと流れ、長い帯を描きながら裾を落ちていく。
「すまない・・・翡翠。すぐに変えを持たせるから、待っていてくれ。」
久遠は慌てた様子で部屋の外にいる者に声をかけた。
儀式の時間が近づく中での突然の騒動に、部屋の外がにわかにざわめき立つ。
しばらくして、替えの装束が届けられると、久遠はそれを受け取り部屋の前の従者に命じて人払いをした。
「翡翠・・・・お前が幸せでいることが、私の全てだ。何が起きても、それだけは忘れるな。」
「久遠?」
小さな違和感に不安を覚え、眉間にしわを寄せる翡翠の頭を、久遠は、愛おしくてたまらないというように、何度も撫でた。
「翡翠・・・・。お前から・・・・名で呼ばれることができて、私は幸せだ。・・・・可愛い、翡翠。」
愛する人に熱くうるんだ瞳で見つめられ・・・・美しい唇が紡ぐ甘い言葉に耳朶を揺すられた翡翠の身体は、瞬きのうちに灼熱を帯び、喜びに震えた。
久遠のあたたかな手が慈しむように翡翠の頬を包み、熱く柔らかな彼の唇がしっとりと自分の唇に重ねられると、翡翠の閉じた目尻から自然と熱いしずくが零れ落ちていく。
久遠の小さな温もりが、下唇を名残惜しそうに軽く
「・・・翡翠。・・・・・・生きろよ。」
「久遠・・・・。っ!」
託された言葉の意味に気づくより先に、翡翠の鼻と口は、痺れるような甘い香りを含んだ布できつく覆われた。
景色が瞬く間に揺らぎ暗く遠ざかっていく・・・・・。
「翡翠・・・・・。お前だけをずっと、愛していた。」
久遠の掠れるように濡れた声を、耳元で遠く聞きながら、翡翠の意識は闇に飲み込まれていった。
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ほの暗い部屋に据えられた衝立の向こう。
目覚めた翡翠が慌てて身体を起こすと、身体を覆っていた薄布がはらりと横へ滑り落ちた。
目の奥がズキリと重く痛み、思わず顔をしかめる。
どれほどの間、眠りにとらわれていたのだろう・・・・。
雨模様とはいえ部屋に差し込む頼りない陽光が、大分くすんでしまっているのを考えれば、すでに日は傾きかけているのは明らかだ。
それなのに自分はここにこうして残されたまま、久遠も、部屋の中にあった棺も、明かりさえもが消え失せ、静まり返っている。
久遠・・・・私に一体、何をしたの?
頭の奥にまとわりついている霞を振り払うように3度ほど頭を振り、翡翠は床を這いながら、小さな卓まで移動する。
ぐらぐらと芯の定まらない身体を卓で支え、どうにか立ち上がると、翡翠は大きく息を吐き出した。
重苦しく冷たい嫌な予感が翡翠の心を強張らせる・・・・・。
翡翠は心を身体を落ち着かせると、そっと部屋を後にした。
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