第195話 祠 2
「叶うなら・・・・人を食らうあの神妖という者を、退けたかったのだが・・・」
誰へともなくつぶやかれた久遠の言葉が、雨に打たれ地面へ落ちた。
祈り終えた久遠は、ふと、この祠の神に捧げるものを、何も持ち得ていなかったことに思い至った。
来る途中、可憐に咲き誇っていた
泥と雨にまみれながら屋敷へ戻った久遠は、湯あみをし身支度を整えると、父の許しを得て翡翠の元を訪れた。
翡翠との対面が許され部屋へと久遠が通されたのは、すでに儀式の時を目前に控えたころだった。
控えとして用意されたその部屋に案内され、久遠がそっと戸を開けると青ざめた翡翠はゆっくりと顔をあげた。
光を失った瞳をむけられ、久遠の胸は痛いほどぎゅっと締め付けられる。
「翡翠っ・・・」
「・・・・・久遠っ」
久遠の手に下げられていた包みが、ごとりと重い音を立て足元へ落ちる。
戸を閉める余裕すらないほど急かされながら、二人は互いをきつく抱きしめた。
今までなぜこういうことをせずに過ごしていられたのだろう・・・・そう思えるほど、二つの温もりは重なっていることが当たり前のものであるかのように、互いの心に溶け合っていた。
鼓動と呼吸を甘く絡ませ、衣越しに愛おしすぎる互いの存在を確かめ合う。
白装束に身を包んだ翡翠は、哀しいほど美しくて・・・・久遠は目を潤ませた。
部屋の中央にはすでに木でできた棺がおかれ、あとはもう中に入り、運ばれるばかりのようだ。
互いの温もりから離れられず、しばらくの間ひたすら抱きしめ合っていたが、久遠の声でようやく二人は身体を離した。
「翡翠・・・。君の好きな果実の汁を持ってきたんだ。一緒に飲もう。」
突然の久遠の言葉に若干の違和感を感じながらも、翡翠は素直にうなずいて微笑んだ。
久遠は足元に落とした包みを拾い上げ、中から素焼きの瓶を取り出す。
二つの白磁の湯飲みを小さな卓に並べると、そこに瓶の中身をとくりと注いだ。
濃い紫色の果汁は、わずかな雨の合間を見て二人が集めた木の実の汁を絞り出したものだ。
濃厚な甘い果汁の野趣あふれる豊かな香りが、二人の鼻腔をくすぐった。
翡翠が口に含むと、久遠はたまらなく切ない表情でそれを見つめてくる。
「旨いか。」
「ええ。今年は雨ばかりだったけれど、ようやく兄様と実を摘みに出られて・・・・あの時はとても嬉しかった。」
「・・・・翡翠。今は兄と、呼んでくれるな。」
「・・・・?」
「名を・・・・呼んで欲しい。久遠、と。」
「・・・・久・・・・遠」
翡翠が抱きしめるようにその名を呼ぶと、久遠はこのうえなく幸せそうに微笑み、彼女の髪に手を伸ばした。
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