第169話 光弘の家 2

 「光弘・・・・」


 俺がためらいがちに声をかけると、光弘は濡れた瞳をまっすぐこちらへ向けてきた。


 「俺は、また姉さんを見捨てた・・・・。守られるばかりで、何もできない。・・・・・黒のことも。・・・どうして俺は・・・・こんなにも弱い。」


 「お前・・・・」

 

 光弘は一度、楓乃子を失っているのだ・・・・。

 あの場に楓乃子を置いてきたことで、光弘の心に残る深すぎる傷はバックリと口を開き、真っ赤な血を噴き出しながら、慟哭を抱いたかすれ声を光弘の口からこぼれさせていた。


 光弘は俺たちに隠れ、これ以上ないほど自分を追い込み、修練し続けている・・・・。

 そのことに気づいている俺には、光弘にかける言葉がみつからなかった。


 光弘は俺たちの中では確かに群を抜いて強力だったが、本人の言う通り神妖たちや黒と比べると、とても太刀打ちのできるレベルではないのだ。


 気づいた時には、俺は嗚咽に震える光弘の頭をうなじへ引き寄せ、きつく抱きしめていた。


 「・・・・真也。俺はもう、何も失いたくないよ。・・・・大切な人たちを守れるなら、俺は、バラバラにされて消えてしまっても、構わないんだ。」


 耳元で響く光弘の言葉に、憤りにも似た焦りが、熱となって一瞬で全身を巡った。


 「光弘っ・・・」


 「馬鹿を言うな!そんなこと、もう二度とさせるものか!」


 俺は一瞬、ぎょっとして固まった。

 自分の口から吐き出されるはずだった言葉が、都古の口から悲鳴となって響き渡っていた。


 その時。

 ふいに、ひどく澱んだ・・・何かが腐ったような潮の香りが、俺の鼻をかすめた。


 一瞬、隣の部屋に置かれていた水槽のことが頭をよぎったが、居間の空気が清涼としていたことを思い出し、背中をゾクリと戦慄が走る。


 「おい・・・・。」

 「ああ。」


 勝と都古も気づき、視線を鋭くした。

 光弘は俺の腕を離れ、黒を守る様に、彼の傍らにピタリと身体を寄せる。


 黒の横たわるベッドの下から、親指くらいの大きさの何かが1つ、サカサカとはい出てきた。


 多くの人が嫌う、例の黒い虫が出たのかとドキリとしたが、特徴的な長い触角はついていないように見える。


 「フナムシか・・・・・。」


 勝の落ち着いた声にホッとしたのも束の間・・・・・ベッドの下から無数の虫が、バケツでまかれた水が広がるようにゾワゾワと湧き出し、瞬きのうちに床を黒く染め上げ始めた。


 足の上を這いあがってくるおぞましい感触に、頭皮がゾワリと戦慄し、全身が粟立った。


 身体の奥底から込み上げてくる強烈な震えと吐き気を、グッと胃の奥へ押し戻し、俺は意識を無理矢理集中させて、気配をさぐった。


 これは、ただのフナムシだ。

 放っておいても害はない。

 むしろ・・・・・。


 『浮かべ』


 俺はベッドの隙間から黒の枕元に伸びた細い触手の主にむけて、言霊を放った。


 宙につるされたそれは、小さなタコだった。

 華やかな模様をまとうそのタコは、祭の時に勝を襲ったあの巨大なサメと同じように、赤黒い靄に包まれ、頭の後ろには小さな刻印が刻まれていた。

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