50話 「肉体言語」
開いた窓から、アートンはこっそりのぞいてみる。
中庭で行われている口論は、激しさを増している。
「あれは!」
外にいたのは、宿の女将とひとり娘のヒロトだった。
ふたりは中庭の焼却炉の前で、互いに罵り合い、大喧嘩をしている。
「しつこいんだよ! いい加減、うっさいんだよっ! 何しようが、あたしの勝手だろ!」
ヒロトが大声を出して、母親をにらみつける。
「なんて口の聞き方なの! あんた、いい加減にしなさいよ!」
女将がヒロトの顔に、思いっきりビンタを食らわせる。
吹っ飛んだヒロトが、焼却炉に尻もちをついて倒れる。
そばにあった書籍類が、ドサドサと崩れる。
「この、ババァ……」
尻もちをついたままのヒロトの目が、憎悪に燃える。
殴られた左頬が、真っ赤になっている。
宿の女将は、いっさい動じることなく、鬼のような形相でヒロトを上から見下している。
「いいたいことは、それだけかしら? っていうか、ババァって言葉しかいえないの? 知能も、とことん低下したものね。案外もうサル並みに、なってるんじゃない?」
ヒロトと女将の間には、母娘の縁もすでにないようで、互いに憎悪をぶつけあっている。
「うるせぇよっ! 死にやがれ! クソババァ!」
そう怒鳴って、ヒロトが手元にあった分厚い本を女将に投げつける。驚いた女将が身をかわす。
そこに、さらにヒロトが本を投げつける。本は女将の身体に当たり、女将が苦痛の声を上げる。
そんな女将にヒロトは容赦なく、さらに足元の本を投げる。
ドスドスという鈍い音がして、女将に本がぶつかる。
「ハハハ! 痛いか! ざまぁ見ろ! クソババァ!」
本を身体中に投げつけられて、うずくまる女将。
そしてヒロトが、足元にあった百科事典を手に取ると、それを女将の頭の上で振り上げる。
目が、完全に血走っているヒロト。
ヒロトに対して、荒い息遣いでにらみつける女将。
「そのクソみたいな顔、ムカつくんだよ! 今から滅茶苦茶にしてやるよ! 二度と男が、見向きもしないような顔になぁ!」
ヒロトが呪詛のような言葉を吐き捨て、百科事典の角を女将の顔面に振り下ろそうとする。
そこにアートンが、飛び込んでくる。
アートンは、ヒロトの手から本をひったくると、彼女の手を後ろ手にまわして拘束する。
「いったぁ!」と、ヒロトが突然の腕の痛みに悲鳴を上げる。
「ヒロトちゃん! なんてことするんだ! よさないか! お母さんに対して、自分が何をしているのか、わかっているのか!」
アートンがヒロトに対して怒鳴る。
たしなめるという優しさもなく、本気で怒っているアートンの声。
「どうせ、もう使わない本なんだよっ! 何が悪い! ついでに、このババァぶち殺すんだよ!」
ヒロトが、拘束されながらもアートンに叫ぶ。
「ヒロト……」
目を血走らせた女将が立ち上がる。
そして、つかつかと歩いてくると、無言で殴りかかってくる。
しかし、女将の目つきの異常性を察知したアートンが、すかさず身をひるがえして女将の鉄拳を、背中で受ける。
アートンにガードされたことで、さらに激昂した女将が、さらに三発つづけてアートンの背中を殴る。
女性の細腕とはいえ、怒り心頭の女将の全力の拳を受けて、アートンも片膝をつく。
「ちょっとっ! あなた! 人の家庭に、口出ししないでっていったでしょ!」
ここで女将が、アートンに対しても怒号を上げる。
「お、奥さん、落ち着いて下さい……。少し頭を冷やしましょう、ヒロトちゃんも、なっ!」
痛みに耐えながら、アートンはヒロトを守りつつ、女将の追撃を警戒しながら立ち上がる。
女将は少し落ち着いたのか、荒い息をしながらも、目つきはだいぶマシになっていた。
ヒロトから本を投げつけられた箇所が痛いのか、そこを押さえて耐えている。
「お、落ち着きましたか? もし、なんでしたらお話し、おうかがいしますよ。失礼は承知ですが、こんな事態を前にして、看過できません。何があったのか、お話し願えませんか」
アートンが、必死の訴えを女将にする。
「そんなのは、こっちから願い下げだよ! 余計なお世話なんだよ!」
ヒロトが、アートンに拘束されながら怒鳴りつけてくる。
「クソババァ! てめぇは、野郎の部屋にでも帰って、粗チンでもしゃぶってろ! クソビッチババァ! 目障りなんだよ! とっとと消えろ!」
そういって、ヒロトはさらに本を投げつける。
今度は女将には当たらず、地面に着弾する本。
それと同時に、アートンが出てきたのと同じドアから、フレイア従業員が飛びだしてくる。
「奥さん、ここはアートンさんに、お任せしましょう。早く怪我のお手当を……」
フレイアが宿の女将さんにそういい、同じくドアの向こうにいる、心配そうにしている従業員仲間を指差す。
「……フン、出来損ないのクソガキ。もうこの家に、あんたの居場所はないと思いなさい」
女将が冷たくそう吐き捨てると、従業員に招かれて手当のためにその場から去る。
中庭のドアが閉まり、女将が中庭から消える。
アートンが、ヒロトの腕をゆっくりと離す。
先程まで憤怒の表情だったヒロトは、今は魂が抜けたようになって棒立ちしている。
アートンに対して、抵抗する気力ももうないようだった。
「ヒロトお嬢さま……」
女将の治療に同行しなかったフレイアが、涙を流しながら力なく声をかけてくる。
それと同時にだった。
アートンの拘束から逃れたヒロトが、背を向けて猛ダッシュで逃げていく。
「あっ!」
アートンが追いかける間もなく、ヒロトの姿が中庭から消えてしまう。
困惑するアートンとフレイア。
フレイアは、悲しさから涙が止まらないようで、ハンカチで真っ赤な目元を何度も拭う。
彼女もここまで酷い、親子喧嘩を見たのははじめてだったのだ。
ふたりの母娘間の溝は、もう修復不能な気がして無力感にさいなまれていた。
アートンも、あまりの騒動だったため勢い余って出てきたが、ここまで最悪な状況になるとは思ってもいなかった。
この悲惨な家族関係を、解決する方法が見つからないことに絶望すら感じていた。
アートンはとりあえず、殴られた脇腹辺りの痛みをこらえ、地面に落ちている本を回収しはじめた。
足元には、ヒロトが置いていった本が、他にもたくさん落ちている。
百科事典から参考書、絵本に教科書の類まであった。
アートンは、焼却炉の中にも本が捨てられているのを見つける。
ヒロトは、どうやら本を焼こうとしていたようだった。
そこを女将さんに見つかって、この騒動になったのだろう。
「えっと、フレイアさん。俺、仕事に戻らなくてはいけないんですが、なんとか帰ってくるまで、これ以上騒動を大きくしないようにできますか? ここまできたら、もう多少強引にでも、家族に介入したほうがいいと思うんですよ。俺もバークを説得しますので、夜にでも、ご家族とで話しあいませんか?」
アートンが、焼却炉の中にある本を取りだしながら、フレイアにいう。
「そ、そうですわね……。ここまで来たら、もう背に腹は変えられませんよね。わたしたちも、今まで何もしてこなかったのが悪いんでしょう。宿で働いている私たちの無関心も、きっとこの騒動の一因なんでしょうね」
フレイアは、ハンカチで涙を拭きながらアートンにいう。
そこでアートンが、ヒロトが燃やそうとした本に、学校の教科書やノートがあるのに気がつく。
足元には、綺麗に取られた授業のノートが開いて転がっている。
「ええっと……。ヒロトちゃん、確かもう、学校には行っていないんですよね?」
アートンの問いに、フレイアが鼻をすすりながら無言でうなずく。
気まずい間がまた発生して、アートンはそれらのノートを拾い上げる。
とても綺麗にまとめられたノートで、本当は勉強が好きな少女だったということがわかる。
地面に落ちていたノートを拾い、ペラペラとめくっていたアートンがドキリとする。
ノートにはヒロトに対する、口汚い罵詈雑言やラクガキが書かれていたのだ。
「淫売宿のヒロト!」
「二度と学校に来るな!」
「さっさと死ね!」
「一回、1万フォールゴルド!」
それらの心ないラクガキを見てアートンは、クラクラと目眩がする。
「学校にも、家庭にも居場所がない、……か」
アートンは、ヒロトの置かれている状況の深刻さを、改めて認識した。
「あの、アートンさま」
フレイアが、アートンに話しかけてきた。
「無理を承知でお尋ねしますが、まだ少し、時間大丈夫ですか? 五分もかかりませんので……」
そういってフレイアが、懐中時計を見せてくる。
昼休み終わりまで、まだ八分残っていた。
ダッシュで帰れば、職場には戻れるはずだった。
なんだったら多少遅刻をしてでもいいし、むしろこの騒動を終わらせるためなら、アートンは仕事を休むつもりでもいた。
フレイアがアートンに話しかける。
「実は前から考えていた案が、ひとつありましてね……。お嬢さまの意向を、完全に無視する考えだと思って、提案を避けていたんですが……」
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