39話 「肉の鎖」 前編

 アートンがフロントに来ると、カウンターに従業員の姿がなかった。

 奥のラウンジで、カップルがいちゃついてるのを発見して、目のやり場に困る。

 フロント横のラックには、新しい新聞とまだバークが読んでいない雑誌があった。

 勝手に借りてもいいんだろうが、一声かけておきたいなと思い、アートンは雑誌類を抱え、しばらく周りに従業員がいないか探してみる。

 すると、トイレ方面からヒソヒソと話し声が聞こえてきた。


 のぞいて見ると、一階のパン屋の職人らしく、通路脇からアートンはその後ろ姿を見つける。

 話し声がするのだが、どこか不穏な空気だった。

 どうやら、フロントの従業員のオバチャンと話しているようで、いつも部屋に来る聞き覚えのある声をアートンは耳にする。

 挨拶と、雑誌を借りる件を伝えにいこうと思ったが、パン職人の声のトーンが上がってくる。

 どうもふたりは口論しているようで、思わずアートンは足を止めてしまう。


 パン職人が、明らかに怒っている感じだったのだ。

「でも、あなた……」という、従業員のオバさんの弱々しい声。

 どうやらふたりは夫婦のようだった。

「でも、じゃない! 何度いえば、気が済むんだ! お嬢さまのことは、もう放っておけと、いってるだろ!」

 パン屋の職人の旦那さんが、奥さんに向けてそう怒鳴っている。

 とても今、顔を出せる雰囲気じゃないなとアートンは悩む。

 従業員のオバチャンは、自分の娘が劇団員をやっていて、よくアートンに話しかけてきた女性だった。

 この女性は、先ほどリアンたちと話をしていたフレイアという従業員だった。

 初めて見るその旦那さんは、あの繊細なパンが作れるのが意外なほどの、筋骨隆々の大男だった。


「うむむ……。こりゃ、あそこに飛び込むのは、朝から体力使いそうだな……。それに、今お嬢さまのことっていってたが、ヒロトちゃんのことなのかな?」

 アートンは、これからの出勤に備えて気力と体力を温存したいところだったので、気にはなるが、ここはふたりの会話には、介入しないことに決めた。

 無断で雑誌類を借りていくのを心の中で詫びて階段を登ると、そこにアモスが立っていて思わず声がでる。

 アートンは、持っていた雑誌類を落としそうになる。

「あら、失礼なヤツね! 人のこと、バケモノを見たように驚くなんてさ」

 実際、アモスのことをそう思ってるアートンなので、何もいい返せない。

「いきなり、目の前に立ってたら驚くよ、仕方ないだろ。で、何してんだよ? 朝食は?」

 アートンが、なるべく平静を装ってアモスに尋ねる。


「飯よりも面白い人間ウォッチングよ」

 そういってアモスは指先を、コソコソと話し込んでいる従業員夫婦のいる方向に向ける。

「他人の家庭の揉め事に、聞き耳を立てるなよ……」

 思わずそういうアートンだが、アモスに楯突くと面倒だとすぐに気づき、慌てて取り繕いの言葉を探しだす。

「あんたも聞き耳立ててたくせに、よくいうわ」

「俺は、偶然遭遇したんだよ……」

「フフフフフ……」

 すると突然アモスが笑いだして、アートンは寒気がする。

 アートンは心の中で、「この女怖すぎるんだよ!」と叫ぶ。


「家庭の揉め事に、口を突っ込もうとしてるのは、あたしたちもじゃない。ヒロトとかいうガキのこと、リアンくんすっかり気になっちゃってるみたいだし。お人好しのあんたも、何かそれでやらかしそうだわ」

 アモスの嫌味な言葉に、アートンは反論することができない。

 確かにアートンも、ヒロトをなんとかしてやりたいと思っていたのは事実だ。

 改善できるのであれば、他人の家庭でも口を挟んで介入することも、アートンは密かに考えていたのだ。

 これは泊めてもらっていた恩に対して、何かしら報いてあげたいという、良心から出てきた、アートンの本能的な善意でもあった。


「あっちの夫婦喧嘩は、あんたも気にしてる、あのガキのことが原因よ」

「え?」と驚くアートンだが、そういえばそんなことを、口にしていたなと思いだす。

「オバチャンは、ガキをなんとかしてあげたいみたいだけど、オッサンが止めてる感じね」

 アモスから口論の原因を聞いて、アートンは驚く。

「どうしてヒロトちゃんを放任する、なんてことになるんだよ。あの職人さん、けっこう筋の通った、親父さんに見えるのに……。ヒロトちゃんを、助けてあげたいと思うのが普通だと思うんだが……」

 アートンが右手の人差し指を曲げて、解せないといった感じでガリッと噛む。

「フフフ……、理由は簡単よ。寝てるからよ」

 アモスが、さらりと一言そういった。

 はぁ? という顔をするアートン。


「ここの女将と寝てるから、あのオッサン、女将のいいなりなのよ。あんたやリアンくんは、あのガキのことを、なんとかしたいかも知んないけど、それは無理な話しよ。まず根本的に、親が二匹ともクズ! 周りの頼りになるかもしれない男どもは、全員あの女将の穴兄弟。気に障るようなこといって、女将から嫌われないように、見て見ぬ振りしてるのよ」

 バカにしたように、アモスがいう。

「お、憶測で、そんなこといってるだけだろ……。だいたい、そんな関係ありえるかよ」

 反論しようとしたが、アモスがねっとりとした表情で、アートンを見てくる。

 その視線に、アートンは思わず目を逸らす。

「信じる信じないは、あんたの好きにしたらいいわ。あたしのこと、ハッタリ女と思おうが、どうぞご自由に」

 アモスが、こんなくだらない嘘を根拠に、会話をするようには思えなかった。

 この女が、情事の現場を盗み見したのは、アートンは事実のような気がした。


「人間ウォッチングは、これだから止めらんないわ。睡眠不足になっちゃいそうよ、ここにいるとね」

 そういってアモスは怪しく笑う。

「あの女将、なんかド淫乱そうな気がしたからね。で、監視してみたら、相当お盛んなことでビックリよ。ちなみにね、あの淫売、あんたには声かけてこないわよ」

 アモスの言葉に、男としてアートンは不満を感じた。

 思わずアートンは、ニヤニヤとしているアモスの顔を、無言で見返してしまう。

「フフフ、安心なさいイケメンさん。あのガキのことを救える人たちかもって、あたしたちのことを、あのオバチャンが旦那に話して、その旦那経由で、あの淫乱女将の耳に入ったのよ。元々あの女将、あんたみたいなのは、かなり好みのタイプだったみたいよ。でもヒロトの話題を持ちだされるのは、あの肉便器にとっては、不快らしいからね。それであんたには唾つけずに、泣く泣く放置してるみたいよ」

「安心したか?」と、アモスが嫌味ったらしく訊いてくる。


「それ、おまえの妄想じゃないって、証拠あるのかよ。だいたい、そんな狂った人間関係おかしいだろ……」

 アートンが、信じたくないという一心で、アモスに反論する。

 そもそも、アモスがそんな情報どうやって手に入れているのか、根拠がないのだから。

「だから、信じる信じないは、あんたの勝手っていってるでしょ」

 ニコリと笑ってアモスはいう。

 やけに上機嫌なアモス。

 アモスの笑顔を見たアートンの中に、自分をコケにして楽しんでいるのでは、という疑惑も湧いてくる。

 これ以上、この女とこの話題をしても何も解決しないだろうと思い、アートンはアモスの発言をすべて無視することにした。


「あんたが、この情報をどう思うかは、どうでもいいけどさぁ。これだけは、しっかり覚えておきなさい。この宿にいる男どもは、全員女将の穴兄弟。覚えた? じゃあ、復唱しな!」

「なんでだよ!」と、アモスの煽りにアートンは思わず反応してしまう。

「無駄な努力はしないことよ」

 そういってアモスは階段を登りはじめる。

「あんたお得意の空回りで、余計にこの宿の人間関係、グチャグチャにしちゃうかもよぉ」

 アモスの言葉に、アートンの心がかき乱される。

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