32話 「不穏なヨーベル」 前編
フロントでは、宿の主人バッツがひとりで店番をしていた。
風俗雑誌をじっくり読んで、バッツはニヤニヤしている。
まだそれほど夜は更けていないので、客足はサッパリだった。
しかし、この宿は深夜になってからが稼ぎ時だった。
そのピークの時間までは、まだ少し時間があった。
カウンター横の柱時計の針は、午後の八時を回ろうかという時刻を指していた。
「ご主人、ご主人~」
やたら控え目な声がして、バッツがハッとする。
「あ、いらっしゃ……。おや? ヨーベルさま」
声をかけてきたのがヨーベルと気づいて、思わずバッツの顔がニヤつく。
ヨーベルは何故か、人目を気にしているように、キョロキョロと辺りを見まわす。
バッツが慌てて、読んでいた風俗雑誌を後ろに隠す。
「はい、なんでございましょう?」
バッツはヨーベルに尋ねるが、ヨーベルはカウンターに置いてあった雑誌をじっと見ていた。
雑誌には、「オールズ教会の怪物! ネーブ主教の正体とは!?」のタイトルが、デカデカと載っていた。
「あ、こんばんは~」
ふと我に返ると、ヨーベルはバッツにワンテンポ遅れて挨拶する。
「あの~。実は、お訊きしたいことが、あるんですけど……」
何故かヒソヒソと、ヨーベルは小声で遠慮がちに訊いてくる。
「ええ、なんなりと! わたしで、答えられることでしたら……」
話しかけられてうれしいバッツだが、ヨーベルの様子から少し不安がよぎる。
「えっと、ですね~」
しばらく虚空を見つめて、ヨーベルは考え込む。
妙な間が生まれてしまうが、バッツはヨーベルの言葉を待つことにした。
「その雑誌、借りていいですか?」
すると、いきなりヨーベルがカウンターの雑誌を指差す。
それは先ほど自身が凝視していた、ネーブ主教が表紙の雑誌だった。
「これですか? どうぞどうぞ。あ、でも、女性があまりお読みにならないほうが、いい記事も多いですよ。オカルトチックといいますか、奇天烈な陰謀論を展開する妙な雑誌ですよ?」
「平気です~。そういうの、むしろ大好きです~」
ヨーベルはうれしそうに、雑誌を懐に抱える。
すると、また考え込むような仕草をヨーベルはする。
再び訪れる妙な間。
「そうだっ! お部屋のほうは、いかがですか? 何か不備は、ありませんでしたか?」
よほど訊きにくいことなのか、ヨーベルが本題に触れようとしないので、バッツは別の話題を振ることにした。
「全然平気ですよ~!」と、笑顔のヨーベルがサムアップする。
「それは良かったです」
ヨーベルの表情を見て、バッツが安堵する。
「あんないい部屋貸していただいて、みなさんすごく感謝していますよ~。あのアモスちゃんですら!」
アモスのことを、ヨーベルは妙に強調していってくる。
バッツは、美人だがやけに気が強そうなアモスのことを思いだし、少し困惑した表情になる。
「そ、そういってもらえると、こちらもありがたいです。実は、あそこ良い部屋過ぎて料金が割高なもんですから、逆に人気がなくて放置状態だったんですよ。なので、潰して小さめの部屋三つぐらいに、改装しようと考えてたんですよ」
バッツが、そんな情報を教えてくれる。
「わあ、そうだったんですね~」
ニコニコとそういうヨーベルだが、どこか心ここにあらず、という感じだった。
「たぶん最後のお客様が、ヨーベルさまたちだったでしょう。あの部屋も、きっと本望でしょうね……」
いい話し風にいってみたバッツだが、ヨーベルは特にノーリアクション。
「そ、そういえば……。ど、どういったご用件だったんでしょうか?」
あまりにも、ヨーベルと意思疎通が測りがたいと感じたバッツは、思い切って自分から彼女に用件を尋ねる。
「あっ、えっとですね~。そうですね~」
バッツにいわれ、ヨーベルはまた考え込む。
ヨーベル独特の間に、バッツは意外とこの女性も、アモス同様面倒なタイプなんじゃと、いまさら思いだして困惑する。
するとヨーベルは、借りた雑誌の表紙に載っているネーブ主教を指差してくる。
「この、気持ち悪い人なんですけど……」
カウンターの上には、広げられたサイギンの街の地図があった。
その北部にある、サイギン市の市庁舎をバッツが指差してる。
ヨーベルが納得したように、何度も興奮気味に顔を紅潮させてうなずく。
「なるほどです~。ネーブさんは、あの大きな市庁舎のホテルにいるのですね?」
ヨーベルは雑誌の表紙に載っている、気持ちの悪いデブ主教を眺めながらいう。
「ええ、そこにいるらしい、とはいわれてます。ですが、連日あちこちで豪遊されてるみたいですからね。あの人の活動は布教活動というか、サイギンの街の土地買収が、メインみたいですからね。市庁舎に行ったところで、お会いできるかどうかも疑問ですよ?」
「ふむふむ~」と、バッツの言葉を今までになくヨーベルは真剣な表情で聞いている。
ヨーベルは主人の言葉を聞きながら、今いるファニール亭から、市庁舎の位置を調べてる感じだった。
地図上では、それほど離れていない。
ヨーベルは宿の近くに、バス停があるのを見つける。
「そのバス停なら、市庁舎まで一直線ですよ……」
ヨーベルの地図を真剣に眺める様から、何をしようと考えてるのかを察してバッツがいう。
そして、バスの時刻表を、カウンターの引き出しから出してくる。
「おおっ! ありがとうございます! これは、とてもいいものです! もらっておきますね~」
バッツの出してきたバスの時刻表を、ヨーベルはうれしそうにもらう。
バッツは、嬉々としているヨーベルを見て、どんどん不安な感じになってくる。
ヨーベルのやろうと考えていることを先読みして、バッツは率先してあえて道を示してみたのだ。
予想が外れてくれるのを期待していたのだが、ことごとくドンピシャだったのだ。
「あの……。どうして、ネーブ主教のことをお訊きに?」
ここにきてさすがにバッツも、ヨーベルに真意を尋ねる。
「え~と……。ちょっと、気になっちゃいまして……」
いかにも隠し事ありますよという感じで、ヨーベルはたどたどしく答える。
ヨーベルと会話していて発生した、何度目かの沈黙の間がフロントに漂う。
「あの、ヨーベルさん?」
バッツの問いかけに、呆けたような顔でしばらくヨーベルは固まる。
「……はい?」
間の抜けた声で、ヨーベルが返事をする。
「さしでがましいことを、申しますが……。あなたのような人が、あんなバケモノに会っちゃダメですよ」
バッツが腕を組んで、困ったように眉を下げながらいう。
「あ、あれ~? ネーブさんに会うの、バレちゃいましたか?」
ヨーベルの照れ臭そうな苦笑いを見て、バッツはさらに表情を曇らす。
「ふうむ……。やはりお会いになるつもり、だったのですね。ハッキリいって、何されるかわかったもんじゃないですよ? あの神官さまから……」
バッツが、オールズ教会の話題なので、少し声を潜めてヨーベルにいう。
「そんなに悪い人ではない、と聞いていますよ?」
どこでそんな戯言聞いてきたのか、ヨーベルの言葉にバッツはまたまた困る。
「オ、オールズ神官の中では……。物分かりのいい人、ではありますが……」
必死にネーブ主教のことを、フォローしてみようとするバッツだが、言葉がつづかない。
「ヨーベルさん!」
ここでバッツが、いきなりヨーベルを指差す。
「ほらっ! あなた、お綺麗でしょ?」
「わぁっ!」と、ヨーベルが顔を紅潮させて照れる。
「ネーブ主教の無類の女好きは、これまた有名なんですよ。猛獣の檻に、自分から飛び込むようなものですよ。女優さん、なんでしょ?」
バッツの言葉にヨーベルは固まり、また微妙な間が生まれる。
「え……? あ、はい~」
わずかな間の後に、ヨーベルは設定を思いだしたように肯定する。
「だったら売れる前に、いらぬゴシップネタを、自分から仕入れる必要ないですって。あんな男なんかに、どうこうしてもらわなくても、あなたの美貌なら女優としてきっと成功しますよ。功を焦って、無理に関わらないほうがいいですよ」
バッツの言葉を、理解してくれているのかいないのか、ヨーベルは相変わらずぼうっとしている。
紅潮した頬に、渦巻き模様が似合いそうなヨーベルの表情。
美女なのは間違いないが、やはりどこか抜けている、という思いをバッツは強くする。
「この国は、マスコミがスキャンダル大好物なの、ご存知でしょ? 間違いなく、後々ネーブ主教の件を、記事にされる可能性が高まりますよ。それは確実に、あなたの経歴に汚点として残りますよ」
ネーブと接触する危険性を力説するバッツだが、やはりヨーベルの反応は著しく悪い。
ここまで無反応だと、さすがにバッツも心穏やかでなくなってくる。
バッツがビシリッと、ヨーベルに指を差す。
「エングラスに、向かわれるのでしょ? 王立劇場への入団も、決まっておられるのでしょう?」
いい方は柔らかだが、どこか詰問しているかのようなバッツの言葉。
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