15話 「ファニール亭」

 場面は移って、リアンたちがいる土手の上にある、ヒロトの実家である宿の入り口。

 玄関から出てきたファニール亭の主人バッツ・ファニールは、大きく背伸びをしつつ深呼吸をする。

「おお、今日も朝からいい天気じゃないか。この空のように、今日という日が平穏でありますように。太陽神ミルバー様の加護が、ありますように……」

 そういってバッツは、神妙な顔で神に祈る仕草をする。

 フォールの人々にとっては、ありとあらゆる存在に神が宿るという、多神教の考えが一般だった。

 その時に必要と思った神に祈り、その対象を変えても特に不敬には当たらないのが、フォールの人々の宗教観だった。


 下を向いていた神妙なバッツの顔は、一瞬で下衆い笑みに変わる。

 バッツはチラリと、すぐ隣の売春宿を見る。

 朝から娼婦の娘がふたり、バッツに色目を使って手を振ってくる。

 さらに顔がニヤつくバッツが、その挨拶に手を掲げて応える。

「そういえば、昨日店に新人が入ったって話しだな。さっそく、朝から試乗してみるか~い?」

 バッツはウキウキしながら、隣の売春宿に歩いていく。

「やぁやぁ、君たち景気はどうだい? 新人の娘は、辞めずにつづけられそうかい?」

 近づくバッツに、売春宿の娘が土手の下を指差す。

 バッツが気になって、彼女たちが指差すそちらを見てみる。


「ん? なんだぁ? ヒロトのヤツ、また変なのと、つるんでいるのか?」

 バッツが見たのは、ひとり娘のヒロトが久しぶりに川辺で、アヒルたちに餌をあげているらしい光景だった。

 しかし、見知らぬ連中も一緒で、今朝はどこか様子がおかしい。

「ん?」

 バッツは、ヒロトが手にしたバケツを、大きく振りかぶるのを見た。

 その瞬間、ヒロトは持っていたバケツを、ひとりの女性の頭めがけて投げつけた。

 バケツは、女性の頭にクリーンヒットする。

 刹那、甲高い金属音が響いてくる。


「!?」

 驚くバッツ。

 バケツを食らった女性が、よろめいて片膝をつく。

 それと同時に別の女性の怒号が聞こえた途端、ヒロトが猛ダッシュで川辺を走り去る。

 追いかけようとした女性を、仲間らしき男性が制止している。



 そんな出来事があったあと、リアンたち一行はバッツの謝罪と招きに応じて、ファニール亭の食堂に通されていた。

 娘の非礼を目撃したバッツから、謝罪の意味を込めて、朝食をふるまわれることになったのだ。

「本当に申し訳ありませんでした、うちのバカ娘が……」

 宿の主人バッツが、深々と被害者のヨーベルに頭を下げている。

 娘のヒロトがバケツを、思いっきりヨーベルの頭にぶつけたのだ。

 さいわいなことに当たりところが良かったらしく、ヨーベルはどこにも外傷も残らずに済んでいた。

 軽い素材の質素なバケツだったので、それほどダメージもなかったようだった。

 当のヨーベルも、何も気にしていないといった感じだ。


「いえいえ、平気ですよ~」

 かなりひどい仕打ちを受けたはずなのに、ヨーベルはあっけらかんとしている。

「あの……。で、これほんとに、いただいてもいいのでしょうか?」

 バークが、宿の主人におそるおそる訊いてみる。

 机の上にはたくさんのパンやスープ、サラダが運ばれてきていた。

 かなり豪盛で、見かけも目に鮮やかな朝食が、空腹のバークたちの食欲を刺激する。

 宿の年配女性従業員が飲み物を持ってきて、おかわりならいつでもどうぞと語りかけてくる。

「もちろん、どうぞお召し上がりください。あのような非礼があったわけですし、むしろこんなもので許していただけると、こちらが恐縮します。娘はキツく叱っておきますので、本当に申し訳ありません。外傷がなくて、本当に良かったです」

 かなり誠実な対応をしてくれる、宿の主人バッツ。


「まったくよっ! この娘、傷物にしてくれてたら、あたしが許してなかったわよ」

 アモスがキツい目つきで、恐縮しっぱなしの主人をにらむ。

 アモスの視線に、深々と頭を下げる主人のバッツだが……。

 下げた視線は、アモスの組まれた綺麗な生足に吸いよせられている。

「アモスちゃん、もうわたしは大丈夫なのですよ~。それよりも、このパンいただきましょう~。表面カリカリで、中はモチモチですぅ」

 さっそくヨーベルが、パンにかじりついて感想をいう。

「ああ、その絶妙な焼き加減が、うちのパンの売りなのですよ。川向うのライバル店にも、負けない味を自負しておりますよ」

 バッツがそういって、誇らしげに胸を張る。

「中にジャムが入っていますね」

 パンを割って、リアンは興味深そうにその中身を見てみる。

「他にも中身はいろいろな種類がありますので、是非味わってみてください。お連れのみなさんもご遠慮なく」

 まだ遠慮している、アートンとバークに向けてバッツがいう。


「そうですか、ではご好意に感謝して……」

 バークがパンに手を伸ばす。

「い、いただかせてもらいます」

 実は眠ったままだったので、事態をよく理解できてないアートンが戸惑いながらいう。

「サラダもありますので、おかわりがいるようでしたら、お声かけくださいね」

 いまいち状況がよく飲み込めていないアートンに、店の年配の女性従業員がやけにベタベタと親しげに話しかけてくる。

 ふたりの女性従業員は、アートンのことをさっそく気に入ったようで、しきりにおかわりを訊いてくる。


 オバチャンふたりにいいよられる感じで困惑しているアートンを、アモスが鼻で笑う。

 そして、宿の主人にキツ目の口調で尋ねる。

「でさ、肝心のあの娘はどこ行ったの? 逃げたきり、帰ってきてないわけ?」

「はい、申し訳ありません……。帰ってきたら、絶対に謝罪させるようにしますので。あの娘、ちょうど難しい年頃でして……。わたしも、何かと手を焼いているのです」

 額の汗を拭い、バッツは困ったようにいう。

 どうもそれは本当のようで、主人の言葉と表情からかなりの深刻さが伝わってくる。

「とっても元気なお嬢さんです!」

 ところが被害者であるヨーベルはこんなことをいって、ヒロトの暴力行為をまるで非難しようとしない。

「あんなことされて、あんたよく平気でいられるわね。あたしなら絶対、いろんなことして泣かしちゃうわね」

 ヨーベルの聖人なのか無神経なのか、理解に苦しむ反応に、アモスは不快感を露わにして口元を歪める。

「ヨーベルは、あれぐらいで怒ったりしないよ。だから、もう済んだことにしましょうよ」

 リアンが、まだアモスの怒りが収まっていないと察して、なだめようとする。


「いきなり、ケンカ吹っかけて来たのは向こうでしょ?」

「でも、お店の前を占領するようなことしたらさ。誰だって気分悪いと思うよ……」

 怒りまだ冷めやらぬアモスに、リアンは穏便に解決させようと語りかける。

「そうだな、こちらにも否がないわけでもないからな……。彼女の突発的な怒りは、理解できないでもないよ。リアンもこういってるし、当のヨーベルももう許してるんだからさ。ご主人も、ここまでしてくれてるんだから、もうおまえも機嫌直そうや」

 アモスという極度に沸点の低い女に、若干の脅威を感じながらも、バークはなるべく穏やかに諭そうとする。

 リアンとバークにいわれ、仕方ないわねとつぶやき、アモスは目の前のパンをひとつ引ったくる。

 パンを食べたアモスの姿を確認したバークが、ようやく少し安心する。

 そして宿の主人に改めて向き直り、ここでバークが口を開く。


「ご主人。俺たち、実は今日からこちらの宿に、お世話になろうかと思っていたんですよ」

 バークの言葉に、主人は意外そうな顔をする。

「おやっ? そうだったのですか? うちの宿は、夜間も営業していたんですよ。あんなところで、一晩明かさなくっても良かったのに。こんな宿ですが、長期宿泊客も歓迎していますよ」

 バッツが不思議そうに、バークたちにいう。

「それがちょっと、訳ありで……」

 バークがいいにくそうに、アートンをチラリと見てからいう。

 それを聞いて、手にしていたパンを皿に戻して、アートンは黙り込む。

 食堂の空気が、なんだか妙な感じになってしまう。

「おや? どんな?」

 事情を知らないバッツが、気になってバークに訊いてくる。


「旅の、お方なんですね? おかわりどうぞ」

 従業員のオバチャンが、アートンの気まずさを察することなくいろいろ世話しようとする。

 かなり困惑してるアートンは、従業員の好意に苦笑いするしかできなかった。

「あ、ありがとうございます」

 かろうじて謝意を述べるが、彼の笑顔は引きつっている。

「ちょっとした、アクシデントがありまして……」

 バークがアートンを意識しながら、言葉を選んでしゃべろうとする。

 そんな男性陣ふたりの様子を、アモスがムスッとした表情で眺めていたが、不意にニヤリとする。


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ここで登場してきたファニール亭の主人ですが、同じバッツという名前のキャラが第一章にも登場していました。単純なネーム設定時のミスで、うっかり重複した感じです。

ということで、バッツという名前は、このグランティル地方でよくある名前だということにします。

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