13話 「橋の下」

 日付は変わり翌朝になっていた。

 小屋で寝ていたリアンが目を覚ますと、むくりと起き上がる。

 リアンはあくびをして、小屋の内部を見回す。

 衝立ての先、寝ているはずのヨーベルとアモスの姿が、布団の中になかった。

「あれ……。ふたりは?」

 姿の見えない女性ふたりを探して、リアンは小屋から出てくる。

 今日も朝から快晴で、青空には雲ひとつない。

 正確な時間はわからなかったが、朝日の位置からまだ午前七時ぐらいだろうか。

 川を見てみると、昨夜夕食時に乱入してきたアヒルが、三羽泳いでいるのが見えた。

 昨日対岸にいたホームレスたちの姿はもう消えていて、別の場所に移っていたようだった。


 小屋の入り口の左右には、アートンとバークがそれぞれ、椅子に座り込んで寝ている。

 女性陣に遠慮して、結局アートンとバークは小屋に入らず表で休んだのだ。

 リアンは、疲れ切って眠っているふたりを起こさないようにゆっくりと小屋を出ると、周囲を探してみる。

 ヨーベルとアモスの姿は、小屋の周辺のどこにもなかった。

 川辺にも、ふたりの姿を見つけられなかった。

 土手の上に上がってそちらを探してみようと思ったら、リアンは急に喉の渇きを覚える。

 リアンはおもむろに川に近づいてみる。

 一見綺麗な清流かと思ったが、川べりには大量のゴミが溜まって漂っている。

「さすがに、これは飲めないよね……」

 川の惨状をひと目見て、リアンは飲むのをすぐ諦める。

 立ち上がったリアンが土手の上を見る。

 朝日が、建物のガラス窓に反射して眩しい。

 薄めた視線の先に、昨日泊まろうとした宿の姿が見える。


「上の宿にお願いしたら、お水ぐらいもらえるかな? アモスとヨーベルも、案外同じこと考えてるかもね。今日から泊めてもらうんだし、挨拶しにいってたりして」

 そんなことをつぶやきながら、リアンは少し急な土手の階段を登る。

 登っていると、パンの焼き立ての匂いが漂ってくる。

 宿の一階にあったパン屋からの、美味しそうな匂い。

 階段を登り切った先で、リアンはすぐにヨーベルを発見した。

「やっぱりいた……」

 宿と同じ敷地のパン屋の壁に、ヨーベルはひとりで立っていて、ずっと壁面を見つめている。

 ヨーベルひとりだけで、アモスの姿はなかった。

 しばらくリアンは、彼女の不思議なその様子を眺める。

 ヨーベルは微動たりしない。

「……何、してるんだろ?」


「おはようヨーベル……」

 リアンは、ヨーベルにそっと近づくと声をかけた。

「どうしたの? こんな所で?」

 リアンは挨拶するとともに、ヨーベルの見つめていた壁を眺める。

 そこにはパン屋の換気扇があり、美味しそうな焼き立てパンの匂いが、さらに強く漂ってくる。

 なんとなくだが、彼女の目的がわかったような気がするリアンに、ヨーベルが挨拶を返してくる。

「あ、リアンくん、おはよ~」

 幾度も聞いた、元気で明るいヨーベルの言葉を聞いてリアンは安心する。


「おはよう、もう起きていたんだね」

「ジャルダンの教会に長いこといたせいで、普通に早起きできるようになったのです。昔はそんな難易度の高いこと、全然できなかったのにです!」

 ヨーベルはリアンのほっぺたを、何故か軽くつねってくる。

「生活習慣の改善ができたんだね。ところで、そこ何かあるの?」

 つねられたままだが、特に痛くないのでリアンは放置しておく。

 ジャルダンではよくされた行為だが、久しぶりだったので懐かしい気分になる。

 ヨーベルの手の温もりを頬に感じながら、リアンは質問する。


 するとヨーベルは満面の笑みになって、頬から手を離して換気扇を指差す。

「これです、これです!」

 壁にある換気窓を指差したヨーベルが、うれしそうにリアンにいう。

「ほらっ! 美味しそうな焼き立てパンの匂いです!」

 だいたい予想はついていたが、やはりその通りだった。

 土手を上がる時からこのパンの匂いは、リアンも感じていた。

「あの島では、こんな素敵な匂い味わえませんでした。ジャルダン刑務所の料理人さんからは、お料理いっぱい教えてもらったんですが、パンの焼き方は習わなかったのです。焼き立てのパンって、こんな素敵な匂いなんですね」

 ヨーベルが感動したように、涎を垂らしそうな勢いでうっとりという。


「こんないい匂い嗅ぐと、僕もおなか空いてきたよ。そうだっ! アートンさんが、昨日買ってきてくれた夕食が少し残ってたし、それでも食べようか?」

「リアンくんは、やはり天才ですか?」

 ヨーベルは快哉すると、両手でリアンの頬をまた引っ張る。

 今度は若干痛いが、リアンは何もいわず、ヨーベルのされるがままに甘んじる。

 ヨーベルはリアンの手を引くと、ウキウキした表情で土手の階段を降りて小屋に向かう。

 急な階段をふたりは、危なっかしい足取りで下っていく。

「起きてから、ずっとあそこにいたの?」

 リアンが、先導するヨーベルに尋ねる。

「腐肉に群がる、そう、忌まわしき蝿の如くです」

 ヨーベルの妙な例えに、「ふ~ん」と軽く答えるリアン。


 川には、アヒル小屋のある桟橋があった。

 暇な人がここで時々釣りをしてるのか、釣り糸や、針が一本床に落ちているのを発見する。

 アヒルもいるのに危ないなと、マナーの悪い釣り人にリアンは若干憤る。

 リアンは危険な釣り針が残っていないかを確認して、桟橋にある資材の上に腰掛ける。

 そして、そこでアートンが買ってきた夕食の残りを、ヨーベルと食べはじめる。

 しばらく川の流れを眺めながら、夕食の残りを無言で食べるふたり。

 陽が昇るにつれ川面が輝き、水の流れる音が心地よい。

 無言の空気に耐性が強いリアンは、特にヨーベルが黙り込んでも気にならない。

 沈黙に耐え切れなくなったわけでもなく、なんとなくリアンが口を開く。


「ヨーベルはさ……。つらかったりしない? 平気?」

 リアンがいきなり、こんなことを訊いてきたのでヨーベルは驚く。

「あれれ? 急にどうしたんですか?」

 リアンの不意の問いかけに、ヨーベルが不思議そうな顔で見てくる。

「いや、大丈夫なのかなって……。ほら、ここまでいろいろあったりしたからさ……」

 リアンは具体的な実例を挙げず、いいにくそうに訊く。

「心配してくれてるんですね~。でも、わたしは全然平気ですよ~。むしろリアンくんのが、自分の身を心配すべき立場なのですよ~」

 ヨーベルは、リアンを怖がらせるような口調でいう。

「そ、そうだよね、……ハハハ。いや、なんかさ。ヨーベル、全然つらそうに見えないから、不思議に思っちゃって」

 リアンは苦笑いを浮かべながら、素朴な疑問を投げかける。

 この辺りの疑問は、リアンだけでなく、アモスも口にしていたことだった。


 どんな危険な目に遭っても、何故かヨーベルは怖がることもなく、終始あっけらかんとしているのだ。

 そのメンタルの強さの原動力は何なのか、リアンは単純に気になっていたのだ。

「こんな大冒険ですからねっ! どんな苦難も、みんなと乗り越えてこその、冒険活劇です!」

 リアンの疑問の回答なのだろうか、そんなことをヨーベルは力強く宣言する。

 ヨーベルのポジティブなのか何なのか、よくわからない思考にリアンは戸惑う。

 こういう人なんだから、もうそれでいいか……、とリアンは思うようにした。


「もしかして~、リアンくんは怖気づいたのですか?」

 今度は、小馬鹿にしたような顔でヨーベルが煽ってきてみる。

「ん~、どうなんだろう?」

 ヨーベルの煽りに満ちた口調にも、特に動じることなくリアンは考え込む。

「ジャルダンに流される前から、実はあまりにも、特殊な体験がつづくものだからさ。正直、もうどういう感じなのか、自分でもさっぱりで……。状況認識が麻痺してる、というか……」

 アハハと、リアンは乾いた苦笑いを浮かべる。

 ヨーベルと同じように、彼自身も案外あっけらかんとしていたりするのだ。

「でも、僕もつらくはないよ。なんだかすごく、貴重な体験をしている感じ」

 そしてリアンも、生死の境を何度も彷徨った一連の苦難の日々を、こんな風に捉えられるポジティブさがあった。


「リアンくんは、やはり大物の素質ありです! 長編活劇の主人公で決まりです!」

 ヨーベルはうれしそうにそういうと、リアンをビシリッと指差してくる。

 そろそろこういうヨーベルの物言いに慣れてはきたものの、やはり唐突にいわれると、リアンは戸惑いの表情が出てしまう。

 そんなリアンの困惑を、ヨーベルは楽しんでいるかのようだった。

 しばらくまた会話が止まり、ふたりは無言で川を眺める。

 夕食の残り物だけでは、やはり少し足りないリアン。

 しかしヨーベルは、不思議なことにまだ全部食べていなかった。


(やっぱり、少食なんだなぁ)


 そんなことをリアンは思う。


(……そういえば、彼女が洞窟でいった話しって)


 黙って川を眺めているヨーベルの横顔を見ていると、ふとジャルダンの洞窟で、彼女が話してくれた内容をリアンは思いだす。

 実は悪い人でした、人を殺した云々の、どうにも信じがたい妄言のような、あの時のヨーベルの独白……。

 その瞬間、リアンは心の中で頭を振る。


(いや、止めとこう、あの話題は!)


 あそこの洞窟での話題は、何故か蒸し返さないほうがいいような感じを、本能的に察したのだ。

 リアンはあえて、彼女がジャルダンの洞窟で語った内容を、黙っているようにした。

 進んで面倒な話題を、掘り起こすこともないだろうと思ったのだ。


「ところでリアンくん?」

 川の流れを眺めていたヨーベルが急に振り返り、リアンに訊いてくる。

「はい、何?」

「アモスちゃん知りません?」

 ヨーベルが、唐突に訊いてくる。

「あれ? そういえば一緒じゃなかったの?」

 リアンもアモスの存在をここで思いだし、逆に質問し返す。

「いえいえ、なんだか起きたらいなくって」

 ところがヨーベルは、不思議そうに首をかしげてそういってくる。

「朝起きてから、彼女に会っていないの?」

 リアンが、若干不安そうにヨーベルに尋ねる。

「はい、まったく……」


 アモスの捜索をするために、リアンとヨーベルは小屋の中を調べたり、周囲を調べたりする。

 どこにもアモスの姿は見当たらない。

 リアンとヨーベルはなるべく、疲れ切って眠っているアートンとバークを、起こさないよう静かに動く。

「アモスちゃん、やっぱりいませんよね?」

 ヨーベルが小声で、一緒に小屋の中を調べていたリアンに訊いてくる。

「彼女のいつも持ってた、ポーチも見当たらない……」

 リアンが困惑しつついう。

「どこに、行っちゃったんでしょう……」

 ヨーベルの不安そうな疑問に、リアンは考え込む。


「もう一緒にいられないと思って、出て行ったのかな?」

 可能性は限りなくゼロに近いが、気まぐれそうなアモスの、なんとなく有り得そうな行動を、リアンはつい口に出してしまう。

「え……、そんなぁ……」

「やっぱり昨日の件が、許せなかったのかな?」

 残念そうにするヨーベルに、リアンは小声で表を意識しながらいう。

 表に寝ているアートンを、配慮してのことだった。

「でも途中から、妙にノリノリだったよね?」

「はい、とっても楽しそうにしていましたよね~」

 リアンとヨーベルが、小屋を離れ、宿周辺を捜索しようかと話し合っていた。

 そんなふたりが会話してるところに、土手の階段を降ってくるひとりの少女がいた。


 少女は目深に帽子を被り、鉄製のボロボロのバケツを手に抱えていた。

 バケツには幼い子供が描いたような、可愛らしいアヒルの絵がペイントされていた。

 その少女はヒロト。

 今日からの宿泊を予定している、ファニール亭の一人娘だった。

 ヒロトは足元を見ながら、慎重に階段を降ってきている。

 今朝は寝起きからなのか昨日のように、口汚い呪詛の言葉を吐くようなこともなく、ヒロトは静かだった。

 すると視線の先に、見慣れない少年と女が話しているのが見える。


 周囲をキョロキョロとしている、リアンとヨーベル。

 そのふたりを見た途端、ヒロトの目つきが突如険しくなる。

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