10話 「日常は半ばまで」

 しばらくの間、なんの変哲のない平穏な日常が過ぎる。

 さすがに航海の「退屈さ」が、リアンたちにも出だした頃だった。

 そんな、ある雨の降る日での一日だった。

 久しぶりに降る突然の雨で、甲板でバリスタの修理をしていたアートンたちは慌てる。

 あまりにも天気が急変したため、嵐を疑ったが、単なる通り雨だった。

 この時アートンが、航海長のパニッシュがやけに安堵の表情をして、一言つぶやいたのが気になった。

 同じように、バークもバニッシュが物騒な言葉を、ポツリとつぶやいたのを偶然耳にしていた。


「オリヨルの怪獣じゃなくて良かったぜ……」


 パニッシュのつぶやきを聞いたアートンとバークは、ドキリとして彼の言葉を頭の中で反芻する。

 ふたりは、パニッシュに発言の真意を尋ねるということはしなかった。

 追求すれば、面倒なことになると思ったからだ。

 アートンとバークは、今聞いた内容のつぶやきを、それぞれ個人の胸の中に閉じ込めておくことにした。


 そんなバークやアートンの作業を、ズネミンが操舵室で眺めていた。

 スイトがやってきて、今夜船長室でアートンたちを招いて、ささやかな夕食会をしようということになった。

 ここ数日、特に変化のない日々が続いたので、スイトが企画してみたのだ。

 スイトは、ズネミンが退屈になってくると、仕事も雑になることを長年の仕事を通じて知っていたからだ。

「そりゃいいな、だが、女房はなしで頼むぞ。ここ数日、欲求不満だとかで、気持ち悪くて面倒なんだよ……」

「ハハハ、了解しましたよ」

 スイトが笑いながらいう。

「おや?」

 スイトがあることに気がつく。

「アートンのヤツ、随分ハイカラな色のインナーを着てますね。ほら、見てください、ひとり、あいつだけ目立っていますよ」

 スイトにいわれ、ズネミンもアートンの姿を探す。


 アートンは、船員たちにインナーを笑われていた。

 オレンジ色と黒のボーダーのインナーだった。

 突然の雨で上着がずぶ濡れになったので、アートンはインナーだけになったのだ。

 それを指摘されてアートンは、船員仲間から総突っ込みを受ける。

「なんだい、そのセンスのね~インナーは」

「おまえは、せめてオシャレであって欲しかった、なんかガッカリだぜ」

「どこで買ったんだよ、そんなハイカラなの」

 船員が、口々にアートンに笑いかける。

 その場が爆笑に包まれ、自分たちがビショビショの格好であることも忘れるほどだった。


「フハハ、ああいうイケメンが、ダサい服着てるのって時々ありますね。男社会にいたせいと、制服しか着てないから、ファッションセンスが疎かになったんでしょうね」

 スイトが笑いながらズネミンにいう。

 しかし、ズネミンの反応がない。

「……船長?」

 スイトが、双眼鏡をのぞき込み、身動きひとつしなくなったズネミン船長に気がつく。

「ど、どうされました?」

 スイトが、ズネミンの異変に気づいて尋ねる。

 ここまでズネミンが驚愕の感情を露わにするのは、はじめてといっていいほどだった。


「あ、あれは、どういうことだ……」

 ズネミンが絞りだすようにそういい、双眼鏡をデスクに置く。

 スイトには、今のズネミンの感情がまるでわからない。

 怒っているようで、落胆しているようで、信じられないというような複雑な表情をしているのだ。

「スイト……」

「は、はい……」

「しばらく、操舵はおまえに任せる。俺は部屋で、休憩させてくれないか?」

「ど、どうされたんですか?」

 あまりにも急なテンションの落ち込みだったので、スイトは不安になる。

「それについては、あとで話すよ……。今のところ、俺はあいつを信用してる! 最悪の事態になんか、ならないってな……」

 ズネミンが、何やら不穏なことをいう。

「えっ? い、いったい……」

 スイトが狼狽すると、周りの船員たちもそれに気づいたようで、ヒソヒソと話しだしている。

「とにかく、あとのことと、今夜のこと頼んだぞ」

 スイトに後のことを託すと、ズネミンは落胆したように操舵室を出ていく。

 残されたスイトは、呆然とズネミンが出ていったドアを眺める。



 夕方になると、スパスが夕食を終えて、タバコを吸いに船橋に出てくる。

 アモスは、ここ二日ほどスパスの監視をサボっていた。

 特に異変もなかったので、飽きて監視を中断していたのだ。

 今日、監視を再開しようと思ったのは、偶然見かけたからという単純な理由だった。

「な、なんなのあいつの顔……」

 アモスはスパスの顔を見て驚く。

 たった数日しか経っていないのに、驚くほどスパスは衰弱しているのだ。

 はじめて会った時とは、別人のように憔悴しているのだ。

 タバコを吸う手もプルプル震え、老化したような印象なのだ。

 しかし、その目だけはギラギラと輝いて、まだ殺気のようなモノは消えていないようだ。

 最初吸血鬼のようだと形容したが、今は死霊のような印象をアモスは受けた。


「人間、あそこまで変われるものなのか? 何が原因で、あそこまでやつれるのよ。死んじゃうんじゃないの? このまま放っておいたらさぁ。いや、あんなのいなくなっても、別に構わないけどさ」

 アモスはここで、スパスが吸っているタバコがジャルダンで吸っていた銘柄と同じことに気がつく。

 今までは船員たちから、いろいろな銘柄をタダで貰っていたのだが、やっぱりあの銘柄が一番好きだったのだ。


「なんだか、ヤツ本気でおっ死んじまいそうね……。どうする? そろそろ、船倉チェックしてみようかしら?」

 そういうと、夕餉の美味しそうな匂いが漂ってくる。

 海の幸をふんだんに使った、いいスープの匂いがアモスの食欲を刺激してくる。

 アモスは、まずは腹ごしらえをしようと思って食堂に向かう。

 その途中スイトと出会い、今夜夕食の誘いを受ける。

「あら? デートのお誘いかしら?」

「いやいや、違うよ」

 スイトは笑いながら、アモスの言葉を否定する。

 リアンたちジャルダン脱出組と全員そろって、ズネミンの部屋で夕食会をしようというのだ。

 アモスはそれを快諾する。


 ここで、アモスがあることに気がつく。

「ねぇ、気になるんだけどさ。向こうに見える街って、やけに近くない? あたしら危険海域を、大回りしてしるんじゃないの? 海図でも陸地は遠かったのに、なんであんな近くにあるの?」

 アモスが北の方角に見える、夕暮れの街を指差してスイトに尋ねる。


「ああ、蜃気楼だよ、はじめてかい?」

「蜃気楼?」

「ああ、詳しい原理はよくわからないが、大気中の温度差によって光が屈折して、遠くの景色が見えるようだよ。自分も長く海の男をやっているが、久しぶりに見たな。じゃあ、わたしは他のみんなに知らせてくるよ」

 さらりといい、スイトはアモスの前から立ち去る。

 だが、アモスから見えないスイトの顔は、かなり焦っていたようだった。


 アモスは、スイトが蜃気楼だという夕景を眺める。

「う~ん、蜃気楼ねぇ……」

 アモスには、どうも信じられない気がしてならなかった。

 気がつくと、スパスの姿も消えていた。

 階段を降りる、スパスの弱々しい足音だけが聞こえてくる。

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