42話 「天賦の差異」 後編
「俺は、あと一ヶ月でここを出る……」
チノが、いきなりそんなことをいう。
牢屋の鉄格子から外をうかがっていたアートンが、驚いて振り返る。
「おおお、そうだったのか! あと少しじゃないか! そりゃ、めでたいな! だったらなおさら、そんな僻むこともないだろ?」
アートンが、若干大げさ気味にチノの出所予定を祝福する。
「自由を取り戻せるんだ、俺のことなんかさっさと忘れる側になればいいじゃないか。俺なんか、まだまだ出られないんだしさ……」
アートンは自嘲気味にそうにいう。
「それにほら、おまえ元々明るくて社交的なんだしさ、外でも絶対上手くやっていけるだろ。ここでの刑務作業で、いろいろスキルも獲得できたんだしさ。案外ムショ帰りってことで、人気者になるかもしれないぞ」
アートンはなんとか、塞ぎこんでいるチノを元気づけようと励ましてみる。
ところが……。
「俺は、出たくないんだよ……」
ポツリとつぶやくチル。
「はぁっ?」
アートンは、素っ頓狂な声を出す。
「ここからっ! 俺はっ! 出たくないんだよっ!」
大声を出し、ここでチノはアートンに振り返ると、自分の胸をたたきながら叫んだ。
さらにチノは、アートンをにらみつけるように見てくる。
「な、なんでだよ?」
唖然とするアートン。
「さっき、いっただろ! 出たところで、俺の人生が好転するとは思えない! 俺はどこにいったって、“ つまらない ”ヤツで終わるんだよ!」
「それにだ……」
悔しそうにチノは拳を震わせる。
「ここにブチ込まれる際に、俺はすべてを失ったんだ! いまさら帰る場所なんて、どこにもないんだよ! どこにもなぁっ!」
しゃべりだすことで、興奮してきたチノの語気がどんどん強くなってくる。
「いろいろ職業訓練とか受けたんだし、生活手段は確保できるだろ……」
チノの興奮をなだめるように、アートンが焦りだしながらなだめるようにいう。
「あんなものっ! なんの役に立つっていんだよ! 誰にでもできるような、単純作業じゃないか!」
チノが座っていた椅子を蹴り飛ばした。
「おいおい、落ち着けって……」
大声で怒鳴るチノをアートンはなだめる。
慌てて、床で暴れてる椅子を元に戻す。
「うるさいぞっ!!!」
「どこだっ!」
この騒ぎでついに、外で看守がざわめきだす。
「うるさいっ! 黙ってろ!」
チノが表の看守に向かって、存在を知らしめるように怒鳴る。
チノはアートンを押しのけ、牢屋から中指を立てる。
「こらぁ! チノてめえ!」
「なんのつもりだっ!」
チノの挑発で、続々と看守たちが集まってくる。
「み、みんな、ま、待ってくれ……。こいつちょっと、今、気が立てるみたいで。ここは勘弁してやってくれよ。ほら、出所間際っていうしさ」
チノの腕を強引に引っ張り、アートンが仲裁に立つ。
「ちっ……」
「ここは、アートンの顔に免じて許してやるか……」
「だが、おいっ! 次はないぞ!」
看守たちが鉄格子を警棒でたたく。
「落ち着けっ、チノ! 今夜はもう寝ろって! なっ? そうだ、医務室へ案内できないか?」
ここでアートンが、牢屋外にいる看守たちに提案する。
「いろいろ心労が溜まってるみたいでさ、出所も近いらしいから、不安もあるんだと思うよ。先生たちと会話したら、落ち着いたりしないかな?」
アートンが看守たちにそういう。
アートンの頼みとあって、看守たちも考え込んでいるようだ。
先ほどまでの怒気は、もう看守たちにもない感じだった。
事態は沈静化に向かおうとしていて、アートンも安心しだした。
すると……。
「……アートンのケツは、そんなに極上か?」
そんな言葉を、チノはいきなり口にする。
「はぁ?」
「どういうことだ!」
「おまえ、何いってんだぁ?」
また看守たちが殺到してくる。
「言葉の通りだよ! クソホモ野郎ども! どうせあの悪趣味なホテルの一室で、掘りまくってるんだろ! くっせえ、クソの臭いが股間から漂ってきてんだよ!」
チノがそういい、看守に向けて何度もツバを吐きかける。
「て、てめえっ!」
看守たちの顔が、たちまち怒りに満ちる。
そして、警棒を手にしてカギを開けようと殺到してくる。
牢屋が開いた瞬間だった。
なんと、チノの側から看守に飛びかかる。
しかしすぐに警棒ではたき落とされると、看守たちが一斉にチノをボコボコにする。
彼らは武闘派のメビー一派ではなかったのだが、今回は看守として囚人に舐められたという事実に対して、素直に暴力で応じたのだ。
他の房の囚人たちが、予定外の展開を見て大盛り上がりをする。
三棟全体が大興奮に包まれる。
アートンはその様子を、呆然と見ているしかなかった。
そこにメビー一味が、ドカドカとやってくる。
「こんな時間に何事だ!」
メビーの怒号に、たちまち静寂に包まれる三棟内。
看守たちが一列に整列し、敬礼をしてメビーたちを迎える。
メビーは、ボコられて横たわるチノを眺める。
「こいつがいきなり騒ぎだし、抵抗してきたんです!」
看守たちがメビーに報告する。
「……誰だ? こいつは?」
地面に横たわるチノは、メビーにはまったく印象に残っていない男だった。
「アートンと同じ房の、チノ・スカーブです!」
「ああ……、アートンのところの凡庸なおまけ野郎か」
メビーは床に倒れるチノを見て、吐き捨てるように一瞥する。
「で、その特に目立たん雑魚が急にどうした? おいっ! アートン! 何があった!」
メビーが大声でアートンに訊く。
「い、いや、俺もよくわからなくって……。なんか帰ってきてからずっと、気が立っていたみたいで」
アートンが、メビーたちにうろたえ気味に説明する。
「ちっ! 床を汚しやがって……」
チノの血で汚れた床を見て、メビーが吐き捨てる。
「とりあえず、懲罰房に放り込んでおけ!」
倒れているチノを見て、メビーは面倒くさそうにいう。
「メ、メビー副所長、懲罰房に空きがないですが……」
メビーを恐れている看守たちが、おそるおそる報告するとメビーは舌打ちする。
「なら、医務室に放り込んでおけ! あそこの座敷牢が、まだ使えただろ!」
メビーがそういうと、担架を持ってきた看守が走ってくる。
チノが乱雑に担架に乗せられ、運ばれていく。
アートンが、牢屋の開いた房で困惑しているのをメビーが見つける。
「ここの房をさっさと閉めろ! アートン! 貴様も出たいのか! どうした? なんなら、出てきてもいいぞ!」
メビーが警棒をパシパシたたいて、アートンを挑発してみせる。
「い、いや、そんなつもりは……」
一方、その隣のジョスファンの房は、いたって静かだった。
珍しくメビーはジョスファンに絡まず、そのまま帰っていく。
「……今のは、何かの仕込みだったのか?」
同じ房のパーラッテが、小声でベッドで横になっているジョスファンに訊く。
「いや、想定外ですね。特に計画にありませんよ」
サラリとジョスファンがいう。
「何も関係ないんだな?」
「ええ、気にする必要ないでしょう」
ジョスファンが、メビーの嫌がらせ目的の絵本をまた読んでいる。
しかし、その視線は、ページに挟んだ刑務所の見取り図にずっと向けられていた。
頭の中に、地図と映像がリンクして、脳が激しく覚醒するような高揚感をジョスファンは覚える。
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