10話 「朝の教会とその北部」 後編

 裏口から出たリアンは、表の井戸付近にある洗面台で、顔を洗っているローフェ神官を見つける。

 井戸自体は単体で使えるものの、今はもう使っていない感じだった。

 今は、きちんと整備された水道を使った、洗面台が完備されているのだ。

 井戸は昔の名残として、残っているだけだった。


「おはようございます、ローフェ神官」

「あっ! おはよ~!」

 濡れた顔のままであることを気にもかけずに、ローフェ神官はリアンに挨拶を返してくれる。

 今朝も元気なローフェ神官だが、不意に眉が下がり、不安そうな声になって訊いてくる。

「そういえば、リアンくん、ベッドから出てたけど……。わたし、何かひどいことしちゃってた?」

 ローフェ神官が、不安そうに尋ねてくる。


「いえいえ、なかなか寝つけなくて……。ソファーに移ってたら、そっちでウトウトしはじめて、気がついたら寝ちゃってたみたいで」

 リアンはそういう設定にして、ローフェ神官を安心させることにした。

「珍しい本もいっぱいありましたし、それ読んでたら、眠くなっちゃって……」

「ああ、良かった……。わたしの中の悪い心が、リアンくんに悪さを仕掛けたのかと思って、ドキドキしてました」

 ローフェ神官は、また反応に困ることをいってくる。

 ここでリアンは、寝室の件をお願いしようと思った。

「そうだローフェ神官、いいですか?」

「おや、不安そうな顔……。なんだろう? やっぱりわたし、リアンくんに悪さしちゃったのかな?」

 リアンの不安そうな顔を見て、ローフェ神官は胸の懐中時計をいじりモジモジとしだす。

「いえいえ、そういうのじゃないです」

 リアンが慌てて否定する。

「何されたとか、そういうんじゃないけど。やっぱり、ローフェ神官さんと一緒の寝室では、寝にくくって……。できれば、お部屋別にしてくれたほうが、僕も落ち着くんですよ」

 リアンが、そういった瞬間だった。

 勝手口が開く音がする。

 そこには呆然とした表情のカースが、鼻孔をふくらましながら立っていた。


「え……」


 異口同音にリアンとカースが口にして、互いの顔を見る。

 なるべく聞かれたくない相手に聞かれてしまい、さすがのリアンも思わず焦る。

 一方のカースは、また表情がピクピクと怪しげな変化をしようとしている。

「ううう……。わたし、やっぱりリアンくんから嫌われるようなこと、しでかしちゃったんでしょうか? ゴメンね、もう何もしないから、怒らないでね……」

 ローフェ神官が、絶賛変顔中のカースのことをガン無視で、リアンに泣きそうな顔で訴えかけてくる。

 リアンの手を持ち、 ローフェ神官は必死に謝ってくる。

 リアンは、ローフェ神官の誤解も否定したいが、なんともいえない表情で固まっているカースも気になって仕方ない。

 すると、リアンは不意に気配を感じる。

 何かが、井戸の隣の小屋から現れる。


 べチャリッ!


 気がついたら、カースの顔面にツバが吐きかけられていた。

 驚いて、ツバの飛んできた方向を見ると、そこにはロバのセザンがいた。


 掃除を終えた詰所の職員たちが、教会からいなくなる。

 朝食の間に、なんとかローフェ神官も、寝室を分けることを了承してくれた。

 自分の中の悪がどうのこうのと、ローフェ神官が被害妄想のようにいい張るその部分を否定して、説得するまでに時間がかかったが、ようやく彼女も納得してくれた感じだった。

 着替えに向かったローフェ神官がいなくなったキッチンで、リアンは早くも疲労してしまった。

 まだ朝だというのに、この疲労度である。

 ここ一週間前から、やけに饒舌な人と出会い、振り回されつづけていたことをリアンは思いだした。

 みないい人ではあったんだが、しゃべりのペースに乗せられると防戦一方になるのが地味にキツかった。

「そういえば、あの人もきっと、心配してるだろうな……。きっと今頃、王都では、大騒ぎになっていそうな気がする……」

 リアンは、この島に流される前の出来事を思いだしてため息をつく。


 このあとはローフェ神官と一緒に、刑務所での作業を手伝うことになっていた。

 リアンは、ローフェ神官から用意してもらった、見習い神官の服を貸してもらう。

「僕、オールズ教会の関係者でもないのに、こんな服着ていいんですか……」

 とても申し訳ない気持ちになって、リアンは躊躇してしまう。

「平気、平気~! わたしが大丈夫といってるので、問題ないのです~。説得力あるでしょ?」

 ローフェ神官の言葉にそんなのあるとは思えないが、仕方ないので見習いの服を着ることをリアンは決断する。


 ローフェ神官が食後の片づけをしている間、リアンは井戸の洗面台で歯を磨きに向かう。

 井戸には水道と一緒に、馬の水飲み場もあった。

 これはロバのセザンが使うもので、井戸にはセザンの彫刻が施されていた。

 岩山にあったのと同じ作者だろうか、かなりの完成度だった。

 作者の著名が掘られていたが、知らない人だった。

 でも、これだけの存在感のある彫刻を作れるのだから、著名人に違いないんだろうなとリアンは思う。


 先ほどいきなり小屋から現れ、気持ち悪いカースにまたツバ攻撃を仕掛けたセザンだが、どうやら小屋の中に拘束されているわけでなく、基本放し飼いになっているという。

 時々外に出かけては教会の西側に広がる墓地方面で、新鮮な草を食んでいることがあるらしかった。

 顔を改めて洗った直後、またリアンは視線を感じる。

 ロバのセザンかな? と思い井戸の隣の小屋を見るが、セザンの姿はなかった。

 嫌な予感がして、リアンは思わず反射的に周囲を見渡す。

 昨夜、目撃したバケモノの件や脱走囚。

 不安な要素は、少し考えるだけで山ほどあるのだ。

 そして、教会の上の壁を見て、リアンはドキリとする。

 教会の古臭い壁には、不完全で歪な形の円がいくつも書かれていたのだ。


 オールズ教会の信者が、メダイとして使っている「歪な円」と呼ばれるものだった。

 オールズ教会を代表する、シンボルマークのようなものだった。

 その「歪な円」が、教会の壁の上部にビッシリと描き込まれているのだ。

 どうもそれが、人の目に見えてリアンは寒気を覚える。

 教会にとっては、神聖なシンボルマークなはずだが、通常ならあり得ないその量に狂気すら感じたのだ。


 その瞬間、リアンは衝撃を受けたようになる。

 昨夜見た夢を、今回に限り何故か鮮明に思いだしたのだ。

 今見ている教会の屋根が、昨夜見た夢で、自分が立っていた場所なんじゃないかということに気づく。

 夢の中で炎が燃え盛っていた場所には、今はセザンの小屋が立っている。

 小屋をのぞくと、ロバのセザンが平和そうに飼葉を食べていた。

「……あの夢って、まさか、ここだったのかな? え? 夢? 夢の記憶?」

 リアンは記憶が混濁したような感覚に囚われる。


 すると、ロバのセザンのいる小屋の奥の窓から見える北側の奥に、とても気になるものが見えた。

 窓から見えるのは、急な勾配の道幅の細い崖のようなものだった。

 その崖の先端に、やけに目立つ彫刻があり、リアンの好奇心を刺激した。

 結構な距離があるが、彫刻はかなりの大きさだというのがわかる。

 興味津々のリアンは、さっそく北側の崖に向かっていた。

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