第7話「あんパンと牛乳の組合せは強い」

 笹田結衣という人物はどうやら平日は何処かの会社に勤めている様で、OL風の装備を身に着けて朝8時頃にアパートから世に解き放たれている。

 あんなバケモノが社会に潜んでいるというのは国家権力の職務怠慢としか思えないが、連日新聞を眺めても猟奇的な事件についての記事は掲載されていない為、恐らく外では大人しいのか、メディア関係者を恐喝しているかのどちらかなのだろう。

 あたしは就労経験が無いからよく分からないけれど、笹田さんの帰りの時間は基本的に午後9時以降で、しかし恐ろしいことに不定期で日が沈みきらない夕方6時頃に帰宅する事がある。定時退社と言うやつだろうか。

 あたしの部屋は笹田さんの住処である202号室よりも1部屋奥なので、今まで彼女の出退勤時に室内を覗かれた事は無いが、笹田さんがいつ覗きに来てもあたしの存在がバレない様、家具や寝具は全て奥の部屋に押し込んで、引っ越した時から付いていたレースカーテンを閉めている。

 そこまで対策していても、あたしの恐怖心は払拭できない。


 笹田結衣という人物は、全くもって、予測不能なのだ。


 午前11時30分。

 笹田結衣、部屋の掃除を始める。

 頭に気色悪い深海魚の様なぬいぐるみを乗せ、器用にバランスを取って歌を歌いながら、彼女は部屋に掃除機を掛けていた。リビングの窓ガラス越しに様子を覗いているだけなので足元はよく見えないのだが、掃除機からは〝ガリガリガリガリ〟とヤバい音が聞こえる。いったい何を吸引しているんだろう。ガラスだったら大事だ。

 彼女は相当な綺麗好きらしく、床だけではなく壁や天井にも掃除機を掛けていた。しかし、天井の掃除をすると必然的に埃が落ちてくる。また床の掃除をしなければならない事に気が付いたらしい彼女は掃除機を止め「サラガドゥーラ・メチカブーラ…」と呟くと、シュンとしてその後は大人しく床の掃除に徹した。埃を被った事でシンデレラを意識しての発言だと思うが、恐らくビビディバビディブゥが呪文のメインだろう。前半だけ唱えてどうする。フェアリー・ゴッド・マザーもビックリである。


 午後0時15分。

 笹田結衣、昼食を摂る。

 笹田さんは基本的に自分で料理をしない人らしく、自炊をしている様子はあまり見た事が無い。

 本日もその例に倣って、何やら買い貯めしているらしいコンビニの冷凍食品を湯煎していた。

 笹田さんは流石に以前揚げ物で大火傷をしたトラウマがあるのか、所狭しと犇めく一つ目のモンスターがプリントされたTシャツと、サスペンダー付きの黒いショートパンツに着替えていた。相当奇抜なファッションセンスだが、不思議と洗練された、彼女によく似合う装いだった。あたしの感性が麻痺しているだけかもしれない。

 彼女のランチの献立はナスとトマトのパスタらしく、意外と真面で美味しそうであった。対するあたしはあんパンとパック牛乳で彼女の部屋の張り込みを続けている。このアパートの通路は外からはよく見えない構造なので今のところ心配はしていないが、見る人が見たら完全に不審者はあたしだった。

 彼女は昼食を食べながらスマホで動画を見るタイプの人種の様で、パスタを器用に箸に巻き付けて啜りながら、たまに「ほほぅ…」と唸っていた。巻き付けるなら箸ではなくフォークが良いのではと考えたが、もしかしたらこの家にはフォークが無いのかもしれない。よし、これだ。いつか彼女に命乞いをする時にはフォークを差し出せば良いのだ。その時が来ない事を祈るばかりではあるけれど。

 スマホの画面はあたしの位置からは見えなかったが、耳を澄ますと男性のセクシーな喘ぎ声が聞こえたので、深く追求しない事にした。


 午後1時30分。

 笹田結衣、ソファで昼寝を始めた為、一度自室へ戻る。


 …さて、午前中の彼女の過ごし方は、手法やスタイルはちょっとアレだとしても、まあいわゆる普通の、「休日の女性」であった。これならばそこまで警戒しなくともあたしの痛快大学ライフは実現するのではないかとも一瞬気が緩んだが、彼女が今朝口にした〝生きては返さない〟という台詞がフラッシュバックし、直ぐにその考えを撤回した。ダメだ。油断したら命は無い。

 しかし、駅も近くて静かという好物件なこの部屋を簡単には手放したくない。目標は彼女との〝共存〟。時に歩み寄り、しかし適切な距離を保つ。その為にはやはり、彼女の事をよく観察しなくてはならない。


 〝ハッピーホーリデーイおはモ~ニン~♪〟


 おや、彼女が目を覚ましたようだ。

 

 午後3時25分。彼女の日曜日はまだ終わらない。

 「さてと、いっちょ見てきますか」

 あたしはまるで一仕事始めるような感覚で立ち上がり、彼女の観察を再開しようと自室を出た。

 隣室202号室は相変わらず壁は薄いしカーテンも無いので中の様子が筒抜けだ。あたしは部屋の構造的に死角になっているであろう絶好の覗きポイントに立ち、そっとリビングを覗き込んだ。

 


 …あれ?


 笹田さんが、居ない…?


 〝ギィィ…〟


 その時、202号室のドアが開いた。

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