聖人君子、愚痴る

浦安寛海

第1話:聖人君子対ダメ新入社員

 午後の仕事が始まってしばらく経ったころ

「高村くん、〇〇物産の企画書は出来たかい?」

と、釈尊が声をかけてきた。

「はい石神井課長、もう少しで出来ます」

 おれは答える。本当は3分の2程しか進んでいない。

「そうか、出来たら持ってきてください」


 石神井尊則しゃくじいたかのりが課長の本名だが、陰では釈尊と呼ばれている。それがただ本名からきているのか、その立ち居振る舞いが鷹揚としていてつ慈悲深い所為せいなのかは入社1年目のおれには判断がつかない。ただ、然程さほど優秀な人間ではないと自覚しているおれが、入社から半年近い月日を経た今でも唯の一度も釈尊から怒られていない事実から、彼は本当に仏のような人だな、と感じている。


(「もう少し」とは言ったものの、今日中はちょっと無理だな‥‥)とおれは思い、少し申し訳ない気持ちになった。だが、出来ないものは出来ない。客観的に見て『なにがなんでも今日中に企画書を上げよう』という気概のないところは半年経っても全く成長の跡が見られないなと思う。こんな部下を持った釈尊が不憫でならない。



 結局、企画書は終業時間には間に合わなかった。残業も、終わるまでやるとなると日付も変わるだろう。勿論全くの定時で上がる訳にもいかないので4~5時間の残業の覚悟を決めた丁度その時釈尊が声を掛けてきた。


「高村くん、企画書はいつ頃終わりそうだい?」

「はい。明日中には」

と、本当は明後日に終わるかも怪しいものだが、一寸短めに言ってみる。

「うーん。少しでも早く欲しいんだよね‥‥私が手伝えることはありますか?」

 手間取っている資料の整理をお願いしよう。

「では、これをお願いします」

 よかった、これで少し早く上がれそうだ。



 昨日は早く上がった所為か、余り眠くならず、結局寝たのが日付が変わった、どころではない午前2時を大きく回ってからだった。なので当然といえば当然だが、目を覚ますと支度する時間はおろか、家を出なければならない時間すら回っていた。今更焦ったところでどうにもならない迄に寝過ごしてしまっていた所為か、支度を始めるまで暫く掛かる程には呆然としていた。


 企画書を上げるのを必死になれないのと同じように、少しでも早く行こうと必死になれないおれは、きっと出世競争にも必死にはなれないし、そういえば運動会も体育祭も、勿論受験も必死に頑張った記憶がない。


 出社の準備をしている途中、電話が鳴ったが、会社からの電話で間違いないだろうし、電話に出てしまったら朝の身支度に支障が出ると思い、無視することにした。


 朝遅い電車の中で会社に折返し電話を掛けるのを忘れていたことに気がついたが、今からだとそう時間も掛からないで会社に着いてしまうし、流石に電車の中なので電話はマズイだろうと思い、そのまま出社することにした。


「おはようございます。遅れて申し訳ありません」


職場に入っていくと、各務原かかみがはら係長がなぜ電話に出ないのか、そもそも遅れるならお前から電話を入れるものじゃないのか。急ぎの仕事があるのにどうして遅刻なんかできるのか。等と凄い剣幕で捲し立ててきたので、おっしゃる通りです。申し訳ございません。以後、気をつけます。を無限ループで再生して対応した。


 生憎とそれが悪い方向に効果を顕し、もう会社に来なくていい。お前はクビだ。と各務原に言われる始末。


(こんなことでクビでは適わない)

と思い、労組に相談に行こうかと思っていたら、釈尊が各務原に

「まあまあ、今回は大目に見てやってくれ」

と、おれに救いの手を差し伸べてくれた。

「ありがとうございます」

 釈尊に礼を言うとデスクに向かうおれ。


「高村くんはあれだね、ちょと素っ気ない面があるね」

と各務原に話しかけてる釈尊。

「それに、仕事を助けて貰うことを当たり前とでも思っているのだろうか? 彼からは感謝の気持が感じられない。だいたい、あの程度の作業に2週間も掛けられてもなぁ。しかもまだ終わってないし」

 ちらっと釈尊を見ると、各務原に話しかけてると言うより、彼のへそ辺りを眺めつつ独り言を言っている体だった。各務原も苦笑いで所在なさげに立っている。


 延々と続く釈尊の愚痴を横目に、そそくさと喫煙室に逃げ込む高村だった。

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