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彼女は私の隣で傘を持ってくれているが、立ち並ぶ古民家やその奥に聳える高層ビルを夢中になって眺めているせいで、私の左半身はもれなくずぶ濡れになっている。
「そんなに面白いかい?」
私が苦笑しながらそう聞くと、彼女は「はい、とても」と、こちらには振り返らずに、街並みを眺めたまま答えた。
五百年後の世界から来た彼女にとっては、雨天でも構わず太極拳をするいつもの爺さんも、朝からモリモリ焼餅を食べている朝自習の学生も、雨に濡れる汚れたアスファルトも、人間のおこぼれを目当てに空を旋回している鳥たちも、目に見えるもの全てが新しいようだった。
私はそんな感覚を、いつの間に無くしてしまったのだろうか。
小さな子供を見守る様な気持ちで彼女のそんな様子を見ていたが、不意にくしゃみをすると、彼女はこちらを振り返り、私の服の色が左右半分で違う事にようやく気が付いた。
彼女は小さな悲鳴を上げ、直ぐに「ご、ごめんなさいっ」と傘の殆どをこちらに傾けてくれたが、女性をずぶ濡れにして自分だけ傘に入る勇気など私には無く、正直濡れる事に関しては随分前に諦めていたので、彼女と平等に傘の面積を分け合った。
「私はいつもこのまま帰るんだけれど、今日はどうだろう、少し歩いてみるかい?」
私が努めて笑顔でそう尋ねると、
「はい、是非連れて行ってください。できれば、水の沢山ある所を見たいです」
と、彼女は努めずとも笑顔でそう答えた。
私はディーヴァを連れ、他愛も無い話をしながら
「沢民さんは楽器を演奏する方なのですか?」
静かに雨の降る街の中を二十分程歩いたあたりで、彼女は私の顔を覗きながらそう問いかけた。
「そうだよ。二胡という楽器を弾いている。部屋にあった弦楽器だ。君も弾いてみるかい?というか君は、楽器を演奏できるのだろうか?」
私がそう尋ね返すと、彼女はこちらに向いていた顔を素早く前に戻し、
「いえ、この話はここまでにしましょう」
と、わざとらしくしらばっくれた。どうやら演奏能力は付加されていないらしい。
「出来そうなものだけれどね。君はアンドロイドなんだろう?よく知らないが、プログラム処理で、何でも出来るのではないのか?」
「アンドロイドと言えど、万能な訳ではありません。あたし達はむしろ、人知を超えないよう、一定の能力以上は発揮出来ないんです。あたしの3世代前に、アンドロイドがアンドロイドを創造する領域にまで達しました。その時、人類によって、大きくアンドロイドの性能を統制する動きがあったそうです」
難しい話でよく分からないが、SFのような、人類VS人工知能の構図が出来上がりそうになっていたということか。
「未来の世界は、随分と物騒だな。人類は元気なのかい?」
五百年後の世界情勢なんて、私には何の影響もないため正直興味もそんなに無かったが、話の流れで彼女にそう尋ねてみた。
「…知りたいですか?悲惨ですよ。とても」
彼女は立ち止まり、重い声でそう呟いた。
空は曇天だったが雨はいつの間にか止んでおり、彼女は傘を折りたたんで、雫を掃った。
遠くには黄浦江を挟んだ向こう岸の街がもう見えている。
見晴らしの良い川岸まであと少しというところで、ひと際厚い雲が空を覆い始めた。
私がどう返したものかと無言でいると、彼女はそれを肯定と見なしたのか、歩き出して、「とても暗い話ですが」と前置きをした。
私はその数歩後に続いて、彼女の話に耳を傾けた。
「あたしの時代の人類は、大きな戦争の最中です。人類は2世代前の戦争で世界人口の約80%を滅ぼして、水も天然資源も殆どを戦火で枯渇させました」
ここから顔は見えないが、彼女は、先程までコロコロと変化させていた表情を全く感じさせない、静かな声色で語り続ける。
「人類は現在、あ、この現在と言うのは、あたしの時代の話です。現在、人同士での直接的な戦闘行為を行っていません。あたし達のような、軍事用アンドロイド〝ステイティア・アンドロイド〟を導入して、領土と資源の奪い合いをしています」
「………!!」
私は絶句した。彼女はつまり、人の殺し合いを代行する、傀儡のようなものだというのか。
「〝代理戦争〟という言葉はあまりしっくり来なくて、例えるなら、そう、銃に足がついて戦車になり、戦車が無人で動く兵器になり、その兵器が、自ら意思を持って敵を討つようになった。といったところでしょうか」
「違う、君は兵器なんかでは無い」
自分でも予想だにしない言葉が口から発せられる。
「いいえ、兵器です。沢民さん、あたしは実際に、多くのアンドロイドを破壊しました」
「だ、だったらなぜ!」
私は周りの目も気にせず、声を荒げる。
「何故、人類は君たちに、感情を持たせたんだ…!?」
私は、怒りなのか悔しさなのか、それとも同情なのか、自分でも良くわからない胸の苦しさを感じていた。
しかし、私の数歩前を歩いていたディーヴァは緩やかに振り返り、
「何故でしょうかね。あたしにも分かりません。…でも、あたしは感情を持って生れてきた事を、不幸だとは思っていませんよ」
と、笑って答えた。
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