第十五話「陰る太陽」

 自分にとって大切な人の存在が、思いがけない勢いで、心の中で大きくなって、世界の中心になってしまう事がある。

 まるで太陽の様に。

 まるで神様の様に。

 そうなってはもう、きっと、その人を〝大切な人〟として想う事は出来なくなってしまう。


 気持ちばかりが募って。

 期待ばかりが膨らんで。


 そして最後には涙を流して、太陽に、神様に、恵まれない自分を嘆くのだろう。


 その言葉が、相手を呪い続けるとも知らずに。











 翌日。10月26日、月曜日。

 朝目覚めると天井には僕に関する情報が幾つも書かれていて、間もなく弟と両親が挨拶をしにきた。僕にはどうやら昨日までの記憶が無いらしく、どれだけ頭を捻っても、初めて見る顔だった。

 だけど唯一、僕の頭の中では一人の少女が嫌味の無い含み笑いをしていた。

 北良彩彩。

 彼女に出会ってから今日まで、彼女と一緒に居た時の事だけはどういう訳か全て記憶に残っていた。それは僕が生まれて以来初めての事らしく、経過観察の為にも昨日までは学校を休んでいたようだが、今日からは、平常通り通学する事になっているらしい。


 不思議と他人とは思えない両親を名乗る二人と会話をしながら朝食を済ませ、僕は渡された〝昨日メモ〟を頼りに、僕が通っているらしい、私立青山高等学校へと向かった。

 「今日も行くの?病院」

 玄関を出る前に、母さんが僕にそう尋ねてきた。病院というのはきっと、彩彩の入院している病院の事だろう。別に毎日会う約束をしている訳でもないので、僕は返事に困っていると、母さんは「まあ、行くなら電話一本入れておいて」と、特段気にしている様子も無くそう言った。


 学校までの道を歩いている途中、ふと、僕は記憶が毎日無くなっているらしいが、それはどこまでなのだろうかと思った。授業を受けた記憶は無いが、日本語は不自由無く話せるし、通学路に立ち並ぶ看板の漢字や英語の意味はある程度理解できる。赤信号は止まるものだと知っているし、車に轢かれたらただでは済まないという危機感も抱いている。

 だけど、どうだ。僕はもしかして、致命的な何かを忘れてしまっているのではないだろうか。例えばそう、実はこの歩道は学生は立入禁止だったとか、学校に着くまでに実は寄らなければならない場所があっただとか。考え出したら分からない事だらけで、知らぬ間に重大な間違いを犯しているのかもしれないという妄想に駆られる。

 僕は何を覚えていて、何を忘れているのだろうか。

 周りの学生に紛れて、普通の人間のふりをしながら、僕は黙々と歩き続けた。学校に着いて教室に入り、授業が始まってからも、僕はずっとそんな事を考えていた。


 学校が終わり、僕は母さんに大江病院に行く事を伝えた。母さんは「わかったよ」と短く応えただけで、それ以外は何も聞かなかった。


 何だか無性に、彼女に会いたかった。

 不安定な世界で、彼女の存在は、僕にとっての道標になっていた。


 病院に到着して、受付で患者と面会したい旨を伝えると、受付の職員はどうやら僕とは顔見知りらしく、行先も聞かずに入院病棟へ入る許可をくれた。確かにここのところほぼ毎日、彩彩に会いに来ていたし、ちょっとした常連扱いなのかもしれない。

 広い割には見取り図の無い不親切な入院病棟を右往左往し、僕はようやく、045号室の前へと辿り着いた。


 そうそう、ここ、ここ。


 なんて知ったかぶってみたり。


 心の中でそう面白がってドアをノックすると、中からは「どうぞ」と、聞き覚えのある声が聞こえた。

 〝昨日メモ〟を読む限り、昨日は彼女とは会えなかったらしい。まったく覚えていないけれど、忘れている訳では無いだろうと、僕は僕を肯定した。

 「失礼します」と声を掛けながら、僕は部屋のドアを開けた。今この瞬間からの記憶を、きっと僕は明日も保持する事が出来るのだろう。彼女と過ごした時間の記憶だけは、きっと失う事は無い。大丈夫だ。この記憶があれば、僕は道に迷う事はきっとない。


 でも、神様はそんなに優しい存在では無かった。

 いや、そんな抽象的な話ではなく、もっと現実的に、彼女はそんなに優しい存在では無かったと言うのが正しいかもしれない。


 「遠山さん、死んじゃったね」


 含み笑いを浮かべる彼女は、世間話の様な口調で、そう言った。










 僕は彼女を救えなかった。

 僕は全てを愛せなかった。

 僕は本当を変えられなかった。


 急に容態が悪化した彩彩は、最期の言葉らしいものを残すことなく、僕の前から去っていった。


 僕が彼女に最後にあげられたものは、軽蔑を込めた軽口だけだった。


 「またどうせ明日も決まってるんだろ」


 これが決められた未来だったと言うのであれば、彼女はそれすら知っていた上で、この結末を選んだのか。

 それともこれも〝神様〟の意志なのか。


 とにかく僕は、彼女に涙一粒残せなかった。


 そんな自分を、僕は肯定する。

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