第十三話「遭遇」

 彼女が誰かに手を引かれて、何処か遠くへ行ってしまう夢を見た。

 彼女の名前を呼ぼうとするが、夢の中の僕は彼女の名前を思い出せない。


 目が覚めて、僕は、天井に書かれた様々な個人情報を全て無視して、彼女の名前を心の中で何度も呟いた。


 彩彩。彩彩。


 恐らく、きっと、生涯で初めて、強い危機感を覚えた。

 彼女の事だけは、絶対に忘れたくない。


 そんな朝を迎えた日の事だった。


〝あの人〟に遭遇したのは。











 10月25日、日曜日。

 どうやら火曜日から学校を休んでいるらしい僕は、休学中の授業の対策もせず、今日も今日とて、彩彩の入院している大江病院の045号室を尋ねていた。


 彼女の病室に通いだして4日目。

 今日は休日なので、高校生が日中町をうろついても補導される心配がないため、趣向を変えようと途中で書店に寄り、有名らしい写真家の写真集を一冊購入した。その足でスマートフォンの地図アプリを頼りに、難なく大江病院まで来れたものの、いざ建物の中に入ると、不親切な事に施設の見取り図がどこにも見当たらず、20分程徘徊してやっと彼女の病室のドアの前まで辿り着いたところだった。


 しかし、ドアをノックしても、彼女の含み笑いは返って来なかった。

 代わりに、


 「誰だ?」


 と、聞き覚えの無い男性の声が聞こえた。


 彩彩には友人も家族も居ないと聞いていたので、正直こっちが「誰だ?」と聞き返したいところではあったが、僕は素直に「北良さんの知り合いの荻伏です」と声を掛け、ドアを開けた。


 そこに立っていたのは、グレーのスーツを着た、線の細い大人の男性だった。

 口元には微かに皺が刻まれ、深みのある黒目でこちらを睥睨していた。


 僕はその姿を見て、率直に、気味が悪い人だと思った。


 「そうか、お前が荻伏か。彩彩なら今、検査中だ。出直すんだな」

 男性はそう言って、手に持っていた紙袋を、彩彩のベッドの脇机に置いた。

 「あなたは誰ですか?」と、僕は聞こうとしたが、口に出すよりも先に、その男性は、

 「俺は高橋たかはし。彩彩の保護者だ。お前の事はアイツから聞いてる。世話になってるみてぇだな」

 と言いながら、こちらに迫って来た。

 反射的に僕が身構えると、「失礼な餓鬼だな。別にいきなりぶん殴ったりしねぇよ。俺はアイツの親でもなんでもねぇんだから」と、少し呆れた様な顔で言った。

 「でも、高橋さんの教会で、彩彩は普段、生活しているんですよね?えっと、高橋さんはその、牧師さん…なんですか?」

 その態度から聖職者であるとは俄かには信じられずそう聞くと、高橋さんは、今度は顎を少し上げて、高圧的な目線を僕に向けた。

 「牧師じゃねぇよ。見て分かんだろ。俺はまぁ、事務員みてぇなもんだ。そしてアイツは別に教会に住んでいる訳じゃねぇ。実際、ほぼ病院暮らしだしな」

 「え、じゃあ彩彩は、退院したらどこに行くんですか?」

 「あぁ?その辺は信者が…、っと、まぁ、上手くやってんだよ。お前に関係あるか?無ぇよな。女のプライベートに口を挟むと嫌われるぞ。じゃぁな」


 高橋さんはそう言って、僕の横を通り過ぎて病室から出て行った。


 昨日メモに彼の名前や、今聞いた話をメモする。


 何故か、とてもじゃないけれど、写真を撮らせてほしいとは、思えなかった。










 僕は彼女を救えなかった。

 僕は全てを愛せなかった。

 僕は本当を変えられなかった。


 急に容態が悪化した彩彩は、最期の言葉らしいものを残すことなく、僕の前から去っていった。


 僕が彼女に最後にあげられたものは、軽蔑を込めた軽口だけだった。


 「またどうせ明日も決まってるんだろ」


 これが決められた未来だったと言うのであれば、彼女はそれすら知っていた上で、この結末を選んだのか。

 それともこれも〝神様〟の意志なのか。


 とにかく僕は、彼女に涙一粒残せなかった。


 そんな自分を、僕は肯定する。

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