第七話「この気持ちの名前は」

 忘れることは悲しい事ではないのかもしれない。

 悲しみも苦痛も、綺麗さっぱり、紛う事なく文字通り真っ新に残らないのならば、それもいいじゃないか。


 そう思っていた。


 でも違うんだ。


 彼女の事は、彼女の事だけは、悲しみも苦痛も。恥じも惨めも後悔も懺悔も、全て、そう全て。総じて全て。


 何ひとつ、忘れたくなんてないんだ。


 辛くたって。











 10月21日。水曜日。

 時刻は16時42分。西日が僕の右頬を染めている。


 僕は、僕の右頬と同じ色に染められた廊下に立っていた。


 平日の夕方だ。こんなシュチュエーションで真っ先に思い浮かぶのは学校という施設だけれど、生憎、僕の現在地は青高ではない。勿論母校の中学校でも、ましてや小学校なんかでもない。

 というか母校なんて覚えていない。


 僕は大江病院第一病棟、045号室の前に立っていた。


 かかりつけらしい病院を出て、僕と両親は僕の通っている青高に電話をかけた。

 横で聞いている限り、僕は今週一杯、学校を休めるらしい。学校を億劫だと思ってはいなかったけれど、なんとなく、少し気が楽になった。もしかしたら昨日までの僕は、学校を億劫だと思っていたのかもしれない。その可能性は高い。


 「会えばまた何か変わるかもしれない。とりあえず彩彩ちゃんに会った方がいい」


 と、母さんの提案を受けて、僕はまた大江病院に足を運んだ。ここまではいいんだけれど。


 「若い二人の仲を邪魔するような無粋な真似はしないさ」


 と、父さんが言い出し、二人は「車で待っているから」と、あっさりと僕を一人にしてしまった。二人は心なしかなんだかウキウキしていた。


 なんということだろう。


 そして僕はロクに院内の見取り図がない不親切な大江病院を何度も右往左往し、昨日メモに書いてあった第一病棟045号室に、やっとの思いで辿り着いたのだった。

 さらにそして、僕には扉をノックする勇気がなかった。


 さてどうしよう。というか病室とはいえ事前に連絡もなしに女の子の部屋を訪ねるのはこれちょっと失礼なんじゃないかな。先ずは笑美さんという看護師さんに一度確認をする方がいいのだろうか。いっそ会えなかった事にして戻ろうか。

 …それにしても、誰の記憶もないこの状況で、たった一人の女の子を覚えているのは、なんだかとても不思議な感覚だ。暗い海の中に一筋明かりが…なんて、そんなロマンチックな表現は恥ずかしいし、イマイチしっくり来ない。なんというか、そう、知らない町の雑踏の中で知り合いを一人見つけた時のような、住み慣れた地元に帰ってきたような、イメージだけれども、そんな気分だった。


 この気持ちがなんて言う名前なのかは、まだわからない。


 その答えはこのドアの向こうで、きっと微笑んでいる。未来が見えるらしい彼女だ。僕がここで迷っている事なんて、彼女にはバレバレなんだろう。


 彼女は昨日、僕に「未来が見える」と、そう言った。


 「え、み、未来が何?」

 「私ね、未来が見えるんだよ。すごいでしょ」

 「そっか………。え、どういうこと?」

 「フフっ。言うと思ったー。えっとね。そのままの意味。予言っていうか、未来予知っていうか」

 「そ、そう、なんだ…、すごいね、うん」

 僕は彼女の言っている意味が全然わかんなくて、適当に頷いた。

 未来が見える?未来予知?何言ってるんだこの子。


 「ちょっと、私が変な子だと思ってるでしょ。いや、まあ変なんだけどさ。とにかく、信じてないでしょ」

 「いや、まあ、ははは、急に言われてもね、ほら、うん」

 「じゃあいいよ、一個予言してあげる。智也は明日も私に会いに来ます。夕方5時前、一人で会いに来ます」

 「いや、そんなこと言われたって、僕は明日にはそんなこと忘れているだろうし、そもそも、職業体験は今日一日だけだし…」

 「それでも会いに来ます。これ、絶対だから。フフっ。楽しみにしてて」

 「………えっと」


 僕の記憶はここまでしかない。誰かが病室に入ってきたような気もするし、僕が勝手に出て行ったのかもしれない。ただもうひとつだけ覚えているのは、彼女は僕が病室を出るときに


 「また明日ね」


 と、そう言っていた。僕も


 「うん、また明日」


 と、言っていたような気がする。ここはあまりよく思い出せない。


 そして今僕は彼女の予言どおり、正しくここに戻ってきている。きっとこれから僕たちは再会するだろう。このまま踵を返して帰ってしまえば彼女の予言は外れるわけだけれど、そんな意地悪をする意味はないし、何しろ、彼女に会わなくては、僕の変化の謎が解けない。


 行くしかない。


 意を決して、僕は045号室のドアをノックした。



 「フフっ。どうぞ」

 柔らかい、少しイタズラっぽい含み笑いが聞こえて、僕は不覚にもドキっとしてしまう。


 「失礼します」


 そう言って僕はドアを開け、窓際のベッドに座っている彼女と再会した。


 ああ、そうか。


 彼女に対するこの気持ちの名前は。なんだ、僕は、そうか。



 安心したんだ。











 僕は彼女を救えなかった。

 僕は全てを愛せなかった。

 僕は本当を変えられなかった。


 急に容態が悪化した彩彩は、最期の言葉らしいものを残すことなく、僕の前から去っていった。


 僕が彼女に最後にあげられたものは、軽蔑を込めた軽口だけだった。


 「またどうせ明日も決まってるんだろ」


 これが決められた未来だったと言うのであれば、彼女はそれすら知っていた上で、この結末を選んだのか。

 それともこれも〝神様〟の意志なのか。


 とにかく僕は、彼女に涙一粒残せなかった。


 そんな自分を、僕は肯定する。

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