第六話「君はもしかして」

 全ての始まりはココからだった。


 何も残らなかった、何も残せなかった僕の中に、

 君の姿があった。


 それが幸か不幸かはわからない。


 ただ、僕はあの時、胸が高鳴って、体が動き出して、口角が上がって、抑えきれない感情のままに駆け出したんだ。


 記憶がなくたってわかる。


 僕は、たまらなく、嬉しかったんだ。











 僕は今病院にいる。

 大江病院ではない。初めて入る、かかりつけらしい病院だ。

 目の前には白衣を着た中年の男性がいる。ネームプレートに書いてある彼の名前は佐伯さえき伸行のぶゆき。佐伯先生だ。メモに書いてあった。


 両親は僕の話を聞いてとても驚いていた。

 「毎朝同じ反応をする息子に対して毎回違う切り返しをするのが楽しみだったのに!どうした!」と、母さんは妙な取り乱し方をしていた。というか楽しんでたのか。

 そう言ってすぐさまかかりつけらしい都会の病院に連れて行かれた。

 しかし、目の前にいる佐伯先生はさほど驚くこともなく、「おお、そりゃまたロマンチックだね」と言うだけだった。


 「記憶は様々なものを媒体として存在している、と仮定しよう。例えば懐かしい匂いを嗅いだとき、よく聞いていた曲を久々に聞いたとき、地元に帰ったとき。そういったときに、人間の記憶は呼び起こされる。しかし、今回の君の場合は何もかもこのケースとは違うね。今朝君は何かその女の子を連想させる匂いや景色に出くわしたわけではないし、そもそも、君には思い出すべき記憶が残らないはずだ。脳の中のそういった事を生業としている部分が人とは違うからね。なので別の仮説を立ててみよう」

 そう佐伯先生は言う。


 佐伯先生に診察してもらうまでに、僕は様々な検査を受けた。

 脳のスキャン?なのかな。よくわからない機械に横になったり、血液を採取されたり、目の中を覗かれたり等々…。

 正直、先生の話を三分の一は理解できないくらいに、なんとなくもうしんどい。


 「別の仮説…とは?」

 父さんが訝しげに聞く。「こんなことは初めてだ」と、父さんも言っていた。相当興味深いのだろう。

 「智也くん、君の脳に何かしらの異変が起きた。そう考えるのが妥当だろう。…そう、その頭だ」

 無意識に右手で頭に触れていた事を指摘され、僕は少し恥ずかしくなった。

 「異変…」

 僕に言われてもさっぱりわからない。


 「そうだ、異変だ。君の脳が昨日、何かが原因で変化したんだ。突然変異だね。いや、もしかしたらずっと前から少しずつ変化していて、今朝たまたまその片鱗を覗かせたのかも知れない。…とは言っても脳の画像を見る限りは特に変わった様子はないし、体も至って健康…。うーん。うん、まだ我々にもわからないね。とりあえず、入院とかの必要はないよ」

 「ええっと、智也はこのまま普通に生活していても大丈夫なんですか?」

 母さんが聞く。質問が増えると帰る時間が遅くなるから黙っていてほしいのだけれど、そうもいかないんだろう。きっと心配なんだろう。


 「問題ないよ。今までのように、今までどおり過ごしてもらってかまわない。記憶障害の子は何も智也くんひとりじゃないからね。こう言ったケースもまあ、前例がある。というか、記憶障害ってのはだんだんと治っていくのさ。治るというよりかは、成熟する、というべきかな。君の脳はまだ完成していない。これからだんだん、みんなと同じようになるのさ。いつになるかは人それぞれ。君の場合は、そういう病気だからね」

 治る病気。成熟する病気。いや、〝病気〟というより〝未発達〟だろうか。〝未熟〟とも言える。なるほど、確かに僕は脳も脳の中身も未熟だ。


 「問題は、君の記憶が残るのは今回だけなのか、ということだ。明日には今日のことを全て忘れているのか、毎週火曜日とかそういったある一定の周期の一部の記憶だけが残るのか。はたまた、今回覚えていた女の子のことだけなのか。それを確認するためにも、今日は帰っていいよ」

 確かにその通りだ。僕の記憶はとても脆い。明日には彼女のことも忘れているかもしれない。それとも、彼女以外のことも覚えているかもしれない。


 にしても一つ気になることがある。


 「それならいいんですが…先生、もう一つ質問が」

 「ん?なにかな?お母さん」

 僕が聞こうとしたことを、母さんが代弁してくれた。

 「〝前例がある〟っとおっしゃいましたが、その前例の、記憶が急に残るようになった原因というのは、なんだったのですか?」


 先生が少しニヤリとした。

 この顔は、意地悪の顔ではない。少し話してわかった。この先生は優しい。ただ、人相が悪い。誤解されるタイプだ。

 「色々ですよ。例えばそうだな…。カラオケがあまりにも楽しくって次の日もそのことを覚えていたとか、犬に噛まれた恐怖だけを覚えていたとか、小説の一文だけなぜか印象に残ったとか。…ちなみにもう一つ、ロマンチックな話もある。先にも言ったけれど、今回の智也くんはこのパターンなんじゃないかと私は思っているけれどね」


 そう言って口角を上げた佐伯先生が次に発する言葉なんて容易に想像がつく。

 だけど僕はそんな感情は知らない。昨日メモのどのページにも、その単語は載っていない。


 だから、僕はその言葉を聞くのが、気恥ずかしさよりも、少し怖かった。



 「智也くん、君はもしかして、恋をしてしまったんじゃないのかな?」











 僕は彼女を救えなかった。

 僕は全てを愛せなかった。

 僕は本当を変えられなかった。


 急に容態が悪化した彩彩は、最期の言葉らしいものを残すことなく、僕の前から去っていった。


 僕が彼女に最後にあげられたものは、軽蔑を込めた軽口だけだった。


 「またどうせ明日も決まってるんだろ」


 これが決められた未来だったと言うのであれば、彼女はそれすら知っていた上で、この結末を選んだのか。

 それともこれも〝神様〟の意志なのか。


 とにかく僕は、彼女に涙一粒残せなかった。


 そんな自分を、僕は肯定する。

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