第五話「覚えてる」
昨日のことを忘れてしまった。
昨日もきっと、昨日のことを忘れてしまっている。
昨日の昨日もきっと同じ。
きっと、生まれてから何万回も繰り返しているんだ。
だからだろうか。
何も覚えていないはずなのに、昨日のことを忘れてしまったとわかるんだろうか。
そう考えて、ふと思う。
僕がこう考えるのは、何万回目なんだろうか。
朝だ。
目が覚めた。
ここはどこだろう。僕は何者だろう。
なにも分からない。
目を開いた先にある部屋の天井に大きな張り紙が何枚かあった。
「荻伏智也」
「私立青山高等学校二年六組」
「12月27日生まれの16歳AB型」
「眠ってしまうと眠る前の記憶がなくなる病気にかかっている」
「一番最初に部屋に来るのは僕の弟 その次が母親 その次が父親」
「夢は看護師になること(おばあちゃんが死んだ時に決めた)」
「僕は僕を肯定するしかない」
そんなことが書いてある。
そうか、僕は全部忘れてしまっているんだ。
僕は肯定した。だって、そうしろって書いてあるから。
でも、理由はきっとそれだけじゃない。
書いてあることに対して、妙に納得している自分がいるような気がした。
きっと僕は、忘れているけれど、忘れているんだけれど、それでも全部、この残念な脳のどこかで覚えているんだろう。
ガチャリと部屋の扉が開いたので僕は顔をそちらに向ける。
扉を開けて入ってきた男の子はとても小さく、見たところまだ小学生だ。
「トモおはよう。ぼく
そう言って自己紹介をしてくれる。そうか、僕の家族はみんな、僕の病気のことを理解しているんだ。
その後ろから二人の大人が入ってくる。
母親と父親だろう。
「トモおはよう。トモの母親だよ。トモは私のこと〝母さん〟って呼んでるよ」
「トモ、おはよう。トモの父親だ。お前には〝父さん〟って呼ばれてる」
そう言って二人の大人が顔を覗き込んでくる。
その二人に僕は「おはよう、母さん、父さん」と返した。
二人は笑っていた。
小さい男の子は朝の仕事が終わったと言わんばかりに、挨拶のあと、部屋を去ってしまった。
なにかテレビでも見ているのかもしれない。
きっと、毎日同じようにしてくれているんだろう。
毎日同じように。
一体どんな、どんな気分で…。
そう考えかけて、少しだけ辛くなったので考えるのをやめた。
「さあ、起きるんだ。起きてお前は学校に行くんだ。ほら、上に書いてある。青山高校の二年六組だ」
「あとね、ほら、あれ見て、机の上。昨日メモって言うの。トモが小学生の頃からつけているメモ。読めばだいたいわかるはずだから、目を通したら下のリビングに降りといで」
そう言って二人は部屋を出る。僕は机の上のメモ用紙の束を手にとった。
ペラペラとめくると様々なことが箇条書きで書いてある。
通っている学校への道、登校時間、クラスメイトの名前と写真、後藤先生という担任の先生、昨日行ったらしい職業体験での出来事の箇条書きなど、我ながら、と言っても書いた覚えはないのだけれど、我ながらわかりやすいメモだった。ご丁寧に〝何があってもこのメモのことは疑うな!書く時に何度も確認してるから!全部事実だから!〟なんて赤字で書いてある。
なるほど、昨日メモね。
目を通してみると、僕は割とまともに日常生活を送ってきたみたいだ。
こう思うのは少し不謹慎だと思うけれども、なんだか新鮮だなあ。
昨日書いたメモを見て昨日のことを振り返る。
怪我人を移動させる実習に、ご飯を食べさせる実習に、お風呂やトイレの実習に…と、昨日の自分はどうやら相当頑張ったらしい。
コミュニケーションの実習ではどうやら楽しくおしゃべりしたみたいだ。この記憶がなくなってしまっているのは少し悲しいけれど。エツ子さんという名前の人に、彩彩という名前の…。
…彩彩?
彩彩。北良彩彩。
含み笑いが特徴的な、一つ年下の、白い入院服を来た、黒い長髪で、見透かしたような喋り方をする、第一病棟045号室の、僕の名前を呼んでくれた、ごめんねと呟いた、未来が見えると言っていた、綺麗な女の子…。
昨日メモは、一切見ていない。
見なくてもわかる。覚えている。彼女のことを僕は覚えている。
僕は彼女のことを覚えている。
昨日メモを読む。間違いない。書いていることも、貼ってある写真も、覚えている。全部覚えている。
僕は部屋を飛び出して、一階への階段を駆け下りた。
今日は父さんと母さんに、いつもと違うであろう朝をプレゼントできそうだ。
…リビングどこだ!?
僕は彼女を救えなかった。
僕は全てを愛せなかった。
僕は本当を変えられなかった。
急に容態が悪化した彩彩は、最期の言葉らしいものを残すことなく、僕の前から去っていった。
僕が彼女に最後にあげられたものは、軽蔑を込めた軽口だけだった。
「またどうせ明日も決まってるんだろ」
これが決められた未来だったと言うのであれば、彼女はそれすら知っていた上で、この結末を選んだのか。
それともこれも〝神様〟の意志なのか。
とにかく僕は、彼女に涙一粒残せなかった。
そんな自分を、僕は肯定する。
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