第三話「北良彩彩」

 無知より愚かなことはない。







 全力ダッシュで講習室に駆け込んだ僕は、職業体験の説明開始24秒前に席に着く…と言うか飛び込むことができた。

 後藤先生には「どこに行ってたの!心配したんですからね!」と、半分呆れたようにどやされてしまった。


 僕の職業体験の引率をしてくれるのは、山岸やまぎし笑美えみと言う名前の看護師さんだ。気の強そうな、凛とした女性である。

 絵美さんには少し怪訝な顔をされたが、しっかりと的確にわかりやすく、今日の日程を教えてもらった。

 ・足を怪我した人をベッドから車椅子へ移動させる実習。

 ・ご飯を食べさせる実習。

 ・お風呂、トイレを手伝う実習。

 ・老人とのコミュニケーション。

 ・同年代の人とのコミュニケーション。

 この五つが今日の主な実習内容だ。


 「何かわからないことはありますか?」

 そう聞かれ、僕は萎縮しながら「いえ、大丈夫です」と答えた。

 「記憶障害なんて大変だね。何か困ったらいつでも言ってね」

 そう言って笑美さんは、僕に自分の写真を差し出した。

 どうやら後藤先生が事前に話を通してくれていたらしく、僕の病気や昨日メモのことを知っているようだ。

 これは正直助かる。


 そんなわけで張り切っての職業体験。

 はっきり言ってキツイ。

 体の不自由な人間ってのは結構重たくて、ベッドからほんの数十センチ離れた車椅子に移動させるだけでも、なかなかの力仕事だ。

 看護師さんに手伝ってもらいながらだけれども、力仕事による汗と、患者さんを抱えてうっかり転ばないようにという冷や汗で、お風呂、トイレのお手伝いのあとのお昼ご飯の時には、僕は汗だくになっていた。


 お昼ご飯中は、老人とのコミュニケーションということで、肝臓の病気でこの病院に入院している76歳の遠山とおやまエツさんと一緒にお話をながら食事をした。

 もちろん、自分の病気のことをしっかりと話して、明日には忘れてしまいます、ごめんなさい、と言うこともしっかり伝えた。

 エツ子さんは、それでも終始ニコニコしながら、「そうなの、大変ねぇ…」と、理解してくれた。どうやらボケてはいないようで、おっとりとした、優しいおばあちゃんだ。


 食事を終えると、エツ子さんは午後の診察があるとのことで、「また明日ねぇ」と、食堂をあとにした。

 個人的に、こういう年上の人と話をするのは好きだなと思った。

 明日もエツ子さんとお話したいな、とも思った。

 まあ、忘れてしまうんだけれど。


 そして今日最後の実習。

 同世代の人とのコミュニケーション。

 基本的に介護の実習は笑美さんが常にいてくれているけれど、笑美さんも仕事中、こういう危険の伴わない実習は、僕一人ですることになる。さっきエツ子さんとお昼ご飯を食べていた時も、途中からいなくなってしまっていた。

 後藤先生も、この病院に来ている他の生徒の見回りがあるので、ちょこちょこいなくなってしまう。


 「この病棟の一階045号室に北良きたら彩彩さあやちゃんっていう、貴方の一つ下の女の子がいるから、その子と一緒にお話をしてきてください。彼女はあまり人と話をしないし、お見舞いも週に一度しか来ないんです。一人でいることが多くて、なかなか心を開いてくれませんが、だからこそ、あなたに一つ課題を出します」

 僕が「なんでしょうか」と聞くと、笑美さんは


 「彼女と仲良くなることです」

 と。無理難題をふっかけてきた。















 僕は彼女を救えなかった。

 僕は全てを愛せなかった。

 僕は本当を変えられなかった。


 急に容態が悪化した彩彩は、最期の言葉らしいものを残すことなく、僕の前から去っていった。


 僕が彼女に最後にあげられたものは、軽蔑を込めた軽口だけだった。


 「またどうせ明日も決まってるんだろ」


 これが決められた未来だったと言うのであれば、彼女はそれすら知っていた上で、この結末を選んだのか。

 それともこれも〝神様〟の意志なのか。


 とにかく僕は、彼女に涙一粒残せなかった。


 そんな自分を、僕は肯定する。

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