Ⅵ「今日は三人でここで眠るのだぞ」
班長の正体が判明した。
班長の名前はフジサキタクオ 31歳独身、職業は薬剤系の科学者で、サングラスは防御メガネ、顔にある火傷のような傷跡は、実験で負った炎症のあとなんだとか。
班長が目を覚ましたので、班長を椅子から開放し、シャワー室へと案内する際に、害意はないことを示すための些細な会話として情報交換をし、これだけの情報を手に入れた。
とりあえず、班長はただの人間だったようなので、謎について、つまりトリックについては、彼がシャワーを浴びてきてから聞くことにしよう。
というか科学者が魔法使い名乗ってたのかよ。
彼がシャワーを済ませるまでのその間に、アトラスさんを叩き起こして、班長の身元の説明をした。するとアトラスさんは、
「何、やつは科学者なのか、ならば私の体を科学的に解明してくれるのか、私は元に戻れるのか!?」
鼻息も荒く興奮し始めた。
「いや、まだそうとは限らないよ。だいたい、アトラスさんの予想通り、もしあいつがアトラスさんをスライム化させた犯人なら、みすみす情報を与えては貰えないだろうな」
「大丈夫だ、私にはスライムミサイルがある」
「もしそいつを俺の家で発動したらどんな手を使ってでもお前を歴史の教科書に乗せてやる」
勿論、ギリシャ神話の神様としてではなく、凶悪な爆弾魔として。
打ち合わせている間に時刻は午後八時となり、班長はシャワー室から出てきた。
先ほど俺が貸した、『I Love War』なんて小さな文字が全身に所狭しと犇めいている黒地のTシャツに、クリーム色のチノパンという怪しい格好をして。
どうやら俺たちに敵意と害意はないと理解してもらえたのか、それともよっぽどアトラスさんがトラウマなのか、素直に俺の指示に従ってくれた。
「コーヒーを煎れてくる」と席を立つアトラスさんを横目に、彼の事情聴取を開始する。なんとしても彼の謎を開示してみせる。
「聞きたいことは山ほどあるが、まずは、あんたが宙に浮いた理由を聞かせてくれ、班長」
班長は一瞬、何を言われたのか分かっていない様子だったが、『班長』という単語が自分を指し示すものだと理解してくれたようで、訝しむような顔をしながらも、答えてくれた。
「ああ、はい…。あまり人には話したくないですし、できれば人に話して欲しくもないのですが…。実は、ワタクシの腕は3m42cmあるのです」
ん?まてまて、こんどは俺が何を言われたのか理解できていない。
「どういうことだ?あんたには腕がないだろうが」
「ああ、あなたは一重なんですね。なら全く見えないでしょう」
そりゃたしかに俺は一重だが、俺の瞼となんの関係があるんだ。
「ワタクシは薬剤系の科学者だと申し上げましたよね?実はワタクシの腕には、ワタクシが独自開発した『
そのネーミングセンスはいかがだろうか。
「ワタクシの腕は3m42cmもあるので、小さい頃からコンプレックスだったのです。そこでこの薬を開発して、人目を引いてしまうこの腕を、一目見ることさえできないものにしたのです。その腕を使えば、2mほど浮かび上がっているように見えるような体勢になることは難しくはありません。疲れるので少ししかその体勢を維持できませんがね」
なるほど。そういうトリックで空中浮遊していたいから、俺が足元を通り抜けようとしたら、コイツの腕に突然、激突したんだな。おそらく、遠くから人を殴りつけるトリックもそういうことなんだろう。
「で、それがどうして俺の瞼に関係してるんだ。さっき一重がどうとか言ってたよな。」
「ああ、それはですね、この薬は一重の人には効果は覿面なのですが、二重の人には、どうにも少しだけ目視できてしまうようなのです」
へえ、そういうもんなんだ…。どうりでアトラスさんには薄ぼんやり腕が見えたわけだ。
「にしてもなんで、そんなに長い…ええと、3m42cmだったか?そんな腕になっちまったんだ」
「それは…」
あ、まずかったかな。
「いや、深い事情があるならいいんだが」
「いえ、特に大きな事件や事故、ましては事情なんてものがあるわけではありません」
「じゃあ一体何があったんだよ」
「…あれはそう、31年前、ワタクシがちょうどこの世で初めて光の刺激を受け、自発呼吸による酸素の獲得をする寸前の話です」
つまり生まれてくる直前の話だな。
「ワタクシは逆子ではなかったのですが、母親のお腹から手が先に出てしまいまして」
「奇形児として生まれてきたってことか」
「いえ、ワタクシはいたって普通の子供だったのですが、その際、当時の産婦人科医の先生が、無理にワタクシの手を引っ張り出したものですから、3m42cmにもなってしまったのです」
お前の新生児期からのカルシウム分泌量について科学的に説明してくれ。
「捕虜、まあ他にも気になることは山ほどあるが、まずは夕食にしようではないか」
と、お盆に何やら料理らしきものを乗せてやってきたアトラスさん。
三枚のお皿に綺麗に盛られたカルボナーラとアイスコーヒーが、それぞれ三人分、テーブルの上に置かれる。そういえばこのおっさん喫茶店のマスターだったな。
やべぇ、めっちゃ美味い。
とまぁ、そんな美味な料理に舌鼓を打ったことによって、班長のアトラスさんに対する警戒心も薄れたようで、なかなか円滑に話が進みそうだ。
というか班長の腕は俺に見えない為、俺の目にはフォークやグラスが宙に浮いている光景しか映らないので、こちとら腹の底がムズムズとする感覚に襲われた状態で食事をする羽目になった。
さて、一息ついたところで本気で本音を聞きたいほどの本当の本題に入ろうか。本来の目的はそこなのだから、美味しい料理くらいで忘れてしまっては本末転倒だ。
「さあ、正直に打ち明けてくれ、私の体をスライム状にしたのはお前なのか」
詰め寄るアトラスさん。だが班長の反応は、
「スライム?一体何の話でしょうか…」
という、しらばっくれる悪役の典型的な一言。だがしかし、班長が嘘をつくような人間には、班長の腕が見えないように、俺には見えない。
「昨日の夜、アトラスさんが仕事から帰る途中で、あんたに背中を殴られたらしいんだよ」
「え、本当ですか。それは申し訳な…あぁ!!」
と、声をあげる班長。いやそう来てくれなくては、ここまで来ていったい誰が犯人なんだという話だけれども。
「ワタクシ、昨日の夜は、サングラスで夜道を歩いていたので、あまり視界が良くなかったのです。それから、その日は市販の『ねるねるねるね』を改造して作った滋養強壮剤『ゲルねるゲルね』20gを、フラスコを割ってしまったので仕方なく、注射器に入れて持ち歩いていたのです。ラボから家に帰って見てみると中身がごっそりなくなっていたのですが、まさか…」
そのまさかなんだろうな。
というか、ツッコミどころは多々あるけれど、『ゲルねるゲルね』って名前、『ゲル練る』はわかるけど後半の『ゲルね』ってなんだよ。ゲル寝か?ゲル音か?まさか意表をついたニューウェーブ、下流音なのか!?
あ、冷静に考えたら『ねるねるねるね』も、『練る練る練るね』で、一文字分字余りしてるか。
もしかしたら『練る?練る?練るね?』と、しつこく確認しているだけかもしれない。
「なるほど、では私はその『ゲルねるゲルね』を注入されたせいで、体がスライムになってしまったのだな」
「おそらく副作用でしょうね、申し訳ないです。20gなら、効果は2週間ほどだと思うので、それまで我慢してください」
「謝られてしまったら許さざるを得まい」
意外と寛容なんだな、アトラスさん。
できた大人だ。アホの癖して。しかも真っ先に逃走するし。いや別に決して根に持っているわけではないけど。
「ではお互いの誤解も晴れ、理解も深まったところで、今日は寝るとするか、私ももう年なのか、少々全力で走ったら疲れのだ」
「おう、アトラスさん、気をつけて帰れよ」
「何を言っているのだ、今日は三人でここで眠るのだぞ」
「は」
「当然だ、なにせ私はもう二度と夜道を歩きたくないのだからな」
確かに時刻は夜9時を過ぎて、あたりにはもう街頭の光と夥しい数の虫と、静まり返った住宅街しか存在しない。
「にしてもなんでいきなり!?てかお前家族いるだろ!それに仕事は!?」
「娘は高校のバスケ部の合宿に行っていて明後日まで帰ってこないし、妻はその隙をついて、友人と旅行中なのだ。私が今朝、店に向かったのは、暇で仕方なかったからであって、本来なら今日と明日、つまり土曜日と日曜日は休日なのだ」
いやいや、飲食店が一番の稼ぎ時とも言える土日を休みにするってどうよ?
まあ、俺の勤務先のファミレスも、店の改修で、今週のみ、土日は休暇なのだけれども。
「それに私もあの修学旅行の夜のような体験をまたしてみたいのだ。私の最後の修学旅行では、部屋割りの関係で生徒である私一人に対して男性教員三人という、地獄のような体験で記憶を彩られているのだ」
「それは不憫すぎる!!!」
そんな青春の1ページなんて塗り潰しちまえよ!!
「まあ、そういうなら仕方ない。どうせ俺、一人暮らしだし、明日も休みだし。どうする?班長」
「ええ、楽しそうですね。ワタクシもご一緒させて頂きます」
傲慢なアトラスさんと違って終始丁寧な班長。まあ、明日の朝ごはんもあんな料理にありつけるなら、それくらい容認してやろう。なんて寛容なんだ。
いや、俺が単に簡単で単純なやつだというだけなのだろう。
と、いうわけで、その日の夜はおっさん三人で、高校時代の話(実は班長と俺の母校は同じだった)、アトラスさんの娘さんの話、班長の実験の話、捕虜(班長にも定着してしまった)が昔好きだった女子の話なんかを肴に一杯やって、しばらくして、リビングで三人仲良く眠りについた。いいおっさんが何やってんだ。
次の日の朝10時、すっかり寝過ごしてしまったのだが、アトラスさんに起こされ、驚愕した。
町中が、水浸しになっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます