Ⅴ「誰かの腕」

 あのあと。


 班長の足元を駆け抜けようとしたのだが、誰かの腕に激突して、その場に尻もちをついてしまった。

 『誰かの腕』といっても、腕なんてどこにもないのだが、そんなものはどこにも見えないのだが、感触は人間のそれのように感じた。

 だがしかし、サイズは尋常じゃないほどに、常軌を逸して異常に長かったけれども。


 しかも起き上がろうとした俺の上に班長が落ちてくる始末。

 どうやら攻撃しようとしたわけではなく、不覚にも不可抗力として重力に抗えず、俺の上に落下してきたようだ。


 つまり、俺が激突した『誰かの腕』によって、班長は空中に支えられているわけであって、魔法則的な現象が発現したわけではないようだ。だんだんとトリックが見えてきた。相変わらず腕は見えないけれども。


 問いただそうとするも、班長は打ちどころが悪かったのか、黒いサングラス越しでもはっきりとわかるほどに、白目を向いて失神していた。

 仕方がない、このまま自宅に連行するか。あのスライム野郎も今頃はあそこに待機していることだろうし。


 白衣のスキンヘッドを担いで家に帰るのはなかなか危険な気がするので(さらに恐ろしいことに、サイレンの音まで聞こえてきた)、世間的には異端の方だが、致し方なく、下水の設備トンネルを辿って帰宅することにした。

 大丈夫、古いマンホールなんて、あのマンションの近くにはいくらでもあるさ。


 しかし班長を担いでの帰宅はなかなかハードだ。

 しかも何かがまとわりついている様に、重い。どうやらさっきの『誰かの腕』を引きずっているらしい。つまり、この腕は班長と連結している、すなわちそれは、班長の腕ということになるわけで、つまるところそれはどういうことかというと、班長には目に見えない長い腕がある、ということである。


 まあやはり、そんな腕も触感のみで、どこにも見えないのだが。それに本当に腕だとするならば、相当に長い。軽く3mはあるぞ。


 そして夕日も沈みかけた頃、ようやっと自宅へと帰り着いた。臭い。


 まずは、文字通り一蹴。

 「てめぇこのスライム野郎!事の発端がなに真っ先に逃走してんだよ!!」

 全身全霊の憎悪と憤怒を込めた飛び蹴りを腹にお見舞いする。そして足はスライム塗れに。


 「まあそう憤慨するな、捕虜。おいしいコーヒーを入れて待っていたではないか」

 「そいつはただのインスタントコーヒーだし、コップが一人分しかないってことはてめぇ一人で飲む気だったんだろうが!」

 「いや私はもう飲んだ」

 「くたばれえぇぇぇぇ!!!」

 二度目の腹部への飛び蹴り、そしてスライム塗れの右足。


 「にしても捕虜、とても臭うぞ、よくそんな体臭で人前に立てるものだな、自覚はないのか」

 「俺と同じ体臭を初対面の人間に、しかも全裸で放っていたアホはどこのどいつだ!」

 「いやドイツはヨーロッパにしか…」

 「ベルリンの赤い雨でも食らわせてやろうかてめぇ!!」


 もうツッコミも億劫になり、俺はとりあえず、まだ気絶している班長を椅子に縛り付け、シャワーを浴びようと、タオルや着替えの準備をすることにした。

 「やはり、何かが薄ぼんやりと…見えてないようなんだよな…」

 班長の肩を見てそう呟くアトラスさん(腹部欠損中)。確かに最初そんな事を呟いていた気もするが、俺にはそんな風には微塵も見えない。

 まあ、微塵は肉眼では見えないけれど。


 そしてシャワーを浴びて部屋に戻ると、アトラスさんは眠りこけていて、代わりに班長が目を覚ましていた。

 俺に気づくと、この世の終わりのような顔をして、瞳からは今にも涙が溢れ出しそうだ。俺が世界を滅ぼす不死身の魔王にでも見えるのだろうか。

 そういえばアトラスさんって、餓死や焼死なんかを除いた、衝撃面のみで考えたら実質不死身だよな。

 もう少し扱いを雑にしても問題はないだろう。


 さて、見た目的には拷問に近いが、あくまで尋問。質問に答えてもらうだけでいいのだ。

 と、その前にまず、シャワーを浴びてもらわなくては。

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