第五話 知り尽くしたい人のこと


 昼餉ひるげを済まし、私は無心で屋敷を掃除した。掃除中は余計な感情を持たなくて良いから、今の私にぴったりな家事しごとだった。

 そして先生の邪魔にならないように音を潜めて数刻。夕餉ゆうげも終え、風呂もかし終え、布団も敷き終え、明日の仕込みも終わった。

 あとは先生の入浴を待って、私も続くだけ。


「はぁぁ……今日も無事一日終わりました。お疲れ様でした、私」


 私は自分をねぎらいつつ縁側に出た。

 辺りは闇に包まれ、気づかぬ内にすっかり夜のとばりが下りていた。

 

「もうこんな時間……」


 こんな時間ではあるが、先生とは朝以降会っていない。先生は書斎から一歩も外に出ていないから、当然と言えば当然なのだが。


 私との会話がわずらわしいから?

 ——いえいえ、それならひたすら無視するはずです。

 私に会いたくないから?

 ——いえいえ、それなら家から追い出すはずです。

 私の顔なんて見たくないから?

 ——いえいえ、それなら朝に「起こして」と頼まないはずです。

 だったら、先生はどうして私を追い払うの?

 ——それは、きっと仕事に集中しているからです。

 私は……都合の良い女?

 ——そんなことありませんよ。


「違います、全部違います。先生は普段から書斎にこもっているじゃないですか。……こんなの、先生に失礼です……」


 己の無意味な質疑に、私はかぶりを振って抵抗した。

 

「駄目……一人だと、嫌なことばかり考えてしまいますね」


 私は気分の浮き沈みが激しいことを自覚している。先日や今日みたく、朝や昼に気分が良くなれば、夜は決まって気分が落ち込む。逆に朝や昼に気分が悪ければ、夜は調子が良くなる。


 それも、先生といると全然変わらないんですけれど。

 ……だから先生はすごい。私の気分を吹き飛ばすつっけんどんさ、私を夢中にさせる立ち振る舞い。


 そんな先生とは、今日はもう会えない気がします。


「気分転換……といえばやっぱりあそこ、ですよね」


 つい口に出してしまったが、落ち込んだ時はやはり気分転換だろう。

 ならばと考えたところ、縁側以外で少し夜風に当たりたくなった。私は草履ぞうりに足を運んで庭に駆け出した。いろんな草木を見ながら、目的地へ一直線に進む。目的地は、庭のすみに生える椿つばきの木。私は着いてすぐ、椿つばきの木をくるくる回って根本に座り込んだ。

 気分が滅入めいった時、私はよくこの椿つばきの下で心をいやしていた。


 ——先生。

 忙しくても私を見てくださる先生。

 先生の気持ちは複雑怪奇ふくざつかいきで、私には貴方にとっての最善が分かりません。だから、未熟な私に教えてください。

 先生の想いが気になってしまう私は、わがままでしょうか。


 何かが込み上げてきたその時、風に乗って声が聞こえた。


「——る?」


 聞き間違えるはずがない。

 これは、先生の声だ。

 見つかりたいはずなのに、私は息をひそめた。今の私の不安定な感情を、先生に見られたくない。気づかれたくない。


 でも。


「蛍?」


 ——……先生には、居場所がお見通しだったみたいです。


 名前を呼ばれた嬉しさを噛み締め「はい」と心の中で返事をし、私は彼を見上げた。先生は癖っ毛の髪を払い「やっぱりここにいたのか」と、語調ごちょうを強めて私の前に仁王立におうだちする。

 先生が用もなく私を呼ぶはずがない。私は髪の毛を耳に掛け、めいっぱいの笑顔を先生に見せた。


「すみません。何か御用でしょうか?」


 だが、先生は首をかしげる。


「いいや、ただお前を探していただけだ」


「そんなはずは……いえ。それはなぜ、でしょうか?」


「さぁ?理由がなければ駄目なのか?」


 先生は溜め息を吐き「よっこらせ」と私の隣にかがんだ。

 私はぎょっとして、


「先生、お召し物が汚れます!」


「いや、なに。別に構わん」


「で、ですがそれは先生が大切になさっていたはかまでは……!」


「構わんと言っているだろう」


「いえ、いえっ。な、なら私が立ちます!私が立つので、先生も立つしかないですよね!?」


 「変なところで強情だな、お前は」立とうとした私の腕を引く先生。「そのままで良い」


「……あ……そんなに、おっしゃるなら……はい」


 膝を曲げ、私も素直に先生の隣にしゃがんだ。

 何故か多忙な先生が私の隣に座っている。先生の貴重な時間が、私の隣で流れている。


 頭の追いつかない状況だが、嬉しい感情が暗い感情を上書きして込み上げてきたのが分かる。

 「先生が自主的に隣に座った」。

 その確かな事実が私の胸を貫く。激しい鼓動こどうを伴って、現実をせつける。

 こんなに近いと、意識しなくても息が上がる。先生に心臓の音は聞こえてないだろうか。私が緊張しているのは伝わってないだろうか。


 長いようで短い、そんな沈黙を破ったのは先生だった。


「何か悩んでいるのか?」


「えっ……」


 ぎくりとして、先生の顔を見る。先生の視線とお顔は私に向いていないが、今の問いは間違いなく私に対してのものだった。

 正直に話すか否か、逡巡しゅんじゅんして私は着物のそでを握りしめる。


 ……でも、言わないと伝わらないですよね。気にかけてもらえたことに、感謝しなければ。


 私は覚悟を決めて顔を上げた。


「先生は私のことがお嫌いなのですか」


 違う、『今』言いたいことはこれじゃない。


「あっ、いえ……間違えました」


 すぐに訂正する。

 失言の最中、先生の反応をうかがったが、先生は少しも動揺しない。それどころか何も反応しない。私を見向きもしない。


「っ……私は、わがままでしょうか」


 無意識のうちに、先生を試していたらしい。残念がる自分を自覚して、私は本題に入ってから唇を噛んだ。

 と、同時に先生と目が合う。

 先生の常闇とこやみごとき瞳に、私の意識は吸い寄せられた。

 ——先生の瞳が私を映している。先生が、私を見てくださっている。

 ここで目を逸らしては駄目だと自身に言い聞かせ、私は続けた。


「私はいやしい女です。すでに満たされているのに、先生のお気持ちが知りたいんです。私の努力は空回りしてないでしょうか。しっかりと、先生のお役に立てているんでしょうか」


 私から目を離さない先生の言葉を待つ。どことなく空虚な瞳は、私を捉えて離さない。続きを話せ、とうながされている気がした。

 私は「えっと」と詰まりながらうつむく。


「有りていに言えば、先生……いえ、他人ひとの気持ちが分からないのです。どう思われてるか、何を言えば喜んでもらえるか……何も、何も分からないんです。先生にだって、不愉快なことを言ってないか不安でたまらないんです。私、このままだと——」


「そんなの分かる人間がいるか。そもそも私だって、お前の気持ちが分からないんだぞ」


 今まで口を開かなかった先生が、私の弱音を強い口調でさえぎった。

 

「むしろ分かってたまるか。どうして本心を知る必要がある?嘘や建前だって、必要な時もある。お前が心配するように、言葉選びを間違えてしまうこともある。私は本心なんて泥臭くて汚いもの、少しも知りたくないぞ」


 溜め息を含みながら、先生は饒舌じょうぜつに語る。

 私は呆気に取られて、先生を無言で見つめるしかできなかった。先生がそこまで考えているなんて、思ってもなかった。


「……なんだその顔は」


 先生は気まずそうに頭をいた後、徐に立ち上がって私に言った。


「だからこうやって会話するんだろう?人間、向き合って話さないと分からないことだらけなんだ。それにお前なら……その忙しない表情があるじゃないか。それが、お前の一番分かりやすい心の出し方だろうに」


 一段と深い溜め息を吐いた先生は、さりげなくとどめの一言を放った。


「それと何を悩んでるか知らんが、別に私はお前のことは嫌いじゃないよ」


 ——私が一番求めていた答えを、躊躇ためらいなく。


「えっ……」


 瞬間、私の胸に感動の波が押し寄せてきた。

 「嫌いでないなら好きでもない」といつもの私なら後ろ向きに考えていただろう。しかし、先生らしからぬ穏やかな答えは、私の単純な頭に前向きな思考——先生は、物事を遠回しに言うことが多い。嫌いでないなら、好きと言うこともあり得るのでは——を生み出した。


 先生と目が合わせられなくて、私は自分の顔を隠した。嬉しいけれど、顔が熱い。どうしてか、徐々に身体も熱を帯びてくる。


「ほら、分かりやすい」


 先生の言葉が火種ひだねのように、更に私の身体を燃やす。


「……ぁ、えっ、そのぉ……————でください」


「なんだって?」


「…………そんなに見ないで、ください。恥ずかしい、です」


 あまのじゃくな先生の素直でいさぎよい言葉は、簡単に信じてはいけない。しかし、たまに見せる真摯しんしな対応には抗えず、私は疑いなく信じてしまう。


「先生は分かりにくい人です……」


「当然だろう。分かってもらおうと思っていないからな」


「でも私は、もっと知りたいです」


「…………」


「先生のことをもっと知って、喜んでもらえるように——」


「私はそんなこと頼んでいない」


「でも……」


「お前は最近そればかりだな。他に考えることがないのか?」


「いえ、そういうわけでは……」


「もう良い、不毛ふもうだ」


 先生は肩をすくめ、私の横から離れた。そのまま、しばらく静寂が流れる。


 先生が言うことはもっともだと思う。今の私は面倒臭くて、先生の手に余る状態だ。誰が見たって、わずらわしい存在だろう。

 ——と、こうやって後悔しているのに、身体は熱いまま。火照った身体はなかなか冷めない。

 それほどまでに先生の言葉が嬉しかったか。もしくは、理性より欲望が上回ってしまったか。


 煩悶はんもんしながらうつむいていると、先生の足が再度動き始める。しかし、不意に視界の端で止まった。

 そして去り際に一言。


「——まぁ、人を敬えるお前は、私よりは偉いんじゃないか」


 小声だったが、私には確かに聞こえた。


「せ、先生より偉いなんて恐れ多い!それは絶対あり得ません!」


 顔を上げて勢いで否定すると、私を見下ろしていた先生は全力で顔をしかめた。


「うるさい、黙れ。時間を考えろ」


 返事をしながら、私は頷く。

 すると、気持ちが落ち着いていることに気がついた。心の重しがすっかり消えている。安堵して、私は嘆息した。


「ありがとうございます」


「何故今礼を?」


「先生とお話して楽になりましたから。今言わないと、先生に会えないでしょう?」


 「そんなこと……」何かを言いかけた先生は顔を背け、頭を振った。「お前に感化され過ぎたようだ。自分の言葉が気持ち悪くて敵わん。私はもう寝るとするよ」


「あっ、ま、待ってください」


 突然早足で立ち去ろうとする先生の着物を、私は咄嗟とっさに掴む。


「最後にお願いがございます」


「あん?」


 先生は不快感を露わにして、私の腕を振り払った。下手に刺激すると話も聞いてもらえなさそうなので、私は払われた手を胸の前に組んだ。


「わ、私……新しいお鍋が欲しいです。今日の餡子あんこ作りで、一つでは足りないことを学びました。もっといっぱい作って、先生に毎日美味しい餡子あんこを食べていただきたいです」


 やっと知れた先生の好物。

 好きなもので釣ってしまうのは申し訳ないが、餡子あんこは先生と話すきっかけにもなるはず。作る練習をして、更には作り置きをして、結果的に先生の心を満たして差し上げたい。

 無茶振りなお願いだったからか、先生は眉を寄せた。


「はぁ、鍋?流行りの洋服ではないのか?もしくは髪留めとか——」


「え?」


「は?」


 先生が私の欲しいものを的確に口にし、素直に驚いてしまった。

 初めはそんな私を不満げに見ていた先生だが、己の言葉に気づいたのか目を逸らし、口元を手でおおった。

 その反応があまりにも可愛くて、


「先生、流行はやりのものとかご存知なんですね?」


 と、つい語尾が上がるくらいからかいたくなった。先生はきっと自身の失言と私の態度に不快感を示すだろうが、今はもうどうでも良い。


 私は意地悪ですから、ここだと思った時にはやめませんよ?


 先生はふん、と平静を装って鼻を鳴らした。


「いや、まぁ……そりゃあ、そうだろうな」


 でも何故か他人事ひとごとのように呟く。


 動揺すると語彙ごいいちじるしく減少するのも可愛いです、先生。


「……先生」


 震えているが、はっきりとした声で先生の名を呼ぶ——愛しい気持ちを抑えて、私は彼の名前を呼ぶ。


隠世かくりよ先生。私、花はきく牡丹ぼたんが好きなんです」


「そ、そうか……」


 私の意図をみ取ってか、歯切れが悪い先生の返事。


「考えてやらんこともない」


 先生は聞き取りにくい声量で呟くと、私を置いて縁側にのぼった。


 結局先生のお気持ちを問いただすことはできなかったが、自身の悩みを打ち明けられたことは嬉しかった。自分以外に気を遣うことが褒められるなんて思ってもいなかったから、意外な切り口のお褒めが更に嬉しい。


 明日からも先生に尽くそうと、私は改めてちかうのだった。

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