ザニバルとキト

 神聖騎士ミレーラが町の一帯に張った聖属性の結界は、闇属性の魔族や魔獣の動きを阻害するものだ。無理に動こうとすれば闇の力を奪い、それでも動けば身体を傷つける。


 ミレーラの目的は、ザニバルの名で町を破壊して住民のサイレン族を蹂躙する大騒ぎを起こすこと。そうすれば本物のザニバルをおびき寄せられるかもしれない。

 そのために偽ザニバルを操り、聖獣ホーリーケルベロスに乗せて暴れ回らせている。

 町に来ている小さな獣耳の少女が暗黒騎士ザニバルの中身であることにミレーラは気付いていない。


 町の家々を壊していくホーリーケルベロスにサイレン族は立ち向かうことなく岩場の洞窟に逃げ込み、町を見守ってきたワダツミ様すなわち猫たちにもなすすべがない。

 偽ザニバルの通報を受けてやってきた巫女マヒメも困り果てている。


 ホーリーケルベロスに逆らうのは、偽ザニバルを許せない虎猫のキトだけ。連れ帰ろうとするザニバルの言うことも聞かずに戦っている。

 

 このところザニバルに置いていかれたばかりだったキトは、ザニバルがもう自分を要らなくなったのだと思っている。だから一匹でさまよって港町ぺスカまで流れてきた。それがザニバルのためだと信じて。

 その港町で遭遇した偽ザニバルをキトは許せない。大好きなザニバルを侮辱しているから。


 キトは齢数百年を数える魔獣ヘルタイガーだ。地獄と呼ばれる亜空間で生まれ、まだ小さな頃から他の魔獣たちとの戦いに明け暮れていた。


 若かりしヘルタイガーを拾って人界に連れ帰ったのは妖魔の魔法使いだった。強大で凶暴なヘルタイガーを飼い猫扱いする妖魔からキトと名付けられ、可愛がられ、殺し合い以外の暖かな世界を教えられた。


 だがそれも長くは続かなかった。妖魔は人間との戦いに敗れて封印されてしまい、キトは孤独になった。

 キトは地獄で魔獣たちと戦う日々に戻った。敵しかいない世界だ。誰もキトをその名で呼んでくれない。寂しさと怒りとで荒れ狂い、時には魔道士からの召喚に応えて人界に現れ、召喚者諸共に殺戮の限りを尽くした。


 空虚で殺伐とした数百年をすごしたキトは、自分が何者だったかを忘れ去ったつもりだった。しかしそんなキトの前に、飼い主だった妖魔が封印を解いてまた現れたのだ。キトは胸に湧き上がる暖かな思いに、自分がかつての日々をまるで忘れていなかったのだと思い知らされた。


 キトは再び妖魔に迎え入れられた。共に過ごし、共に戦った。幸せな日々だった。永遠に続くものと信じていた。戦乱が始まり、魔族を率いる妖魔が苦悩し、ついにいなくなってしまうまでは。


 突然置いていかれたキトは驚き、悩み、苦しんだあげくに受け入れた。自分は要らなくなったのだ。だから捨てられても仕方ないのだ。


 キトは闇雲にさまよい、傷つくことも構わず暴れた。

 もはやキトではなく、ただヘルタイガーと呼ばれた。

 

 ある日、ヘルタイガーは古代迷宮に迷い込んだ。そこに巣くう魔物たちと戦いながら迷宮地下深くに潜っていき、迷宮の主である龍に力任せの戦いを挑んで返り討ちにあった。


 ヘルタイガーは深い傷を負って力を失い、小さな虎猫の姿になって暗い迷宮奥深くに横たわっていた。目を閉じるとかつての楽しかった日々が走馬灯のように巡る。

 そこに何者かが近づいてきた。ヘルタイガーは遂に自分の最期が訪れるのだと諦観した。


 ヘルタイガーの身体に強い闇の力が流れ込んでくる。傷が回復していく。

 目を開いたヘルタイガーの前には、漆黒の鎧をまとった騎士がいた。この騎士が闇の瘴気をヘルタイガーに与えてくれたのだ。

 信じがたい愚かな行為だった。ヘルタイガーにとって迷宮で出会う者は全て攻撃対象。特に人間の騎士は相いれざる敵だ。その敵が救いの手を差し伸べてくるなどとは。


 傷が癒えたヘルタイガーは、小さな虎猫から大きな本来の姿へと戻った。それが騎士と戦いを始める合図だというつもりだった。

 だが暗黒の騎士は魔法の鎧を解除した。中から現れたのは小さな獣耳の少女だった。

 ヘルタイガーは訳が分からない。少女は見るからにおびえきっている。なのに鎧を脱ぐだなんて、自分から食べられたいのだろうか。

 少女は身体を震わせてひどく怖がりながらも、キトから目を外すことなくおずおずと手を伸ばしてきた。そして上目遣いに言った。キト、撫でていい?と。


 その名で呼ばれて、ヘルタイガーは激しく動揺した。逆らうことなどできず、頭をそっと低く下げた。少女から頭を優しく撫でられた。

 どうして少女がキトと呼んできたのか、ヘルタイガーには分からない。でも少女は迷うことなくその名を使った。魂の奥底に隠してしまった名前を見抜かれたかのようだった。


 こうしてヘルタイガーは己がキトであることを取り戻した。

 少女はザニバルと名乗った。

 ごろごろと喉を鳴らすヘルタイガーの首に少女ザニバルは両腕を回して抱きついた。キトはとても暖かかった。


 ふたりはそれから力を合わせて龍を倒した。そして家族になった。

 あれからずっとキトはザニバルと暮らしてきた。でもずっと覚悟していた。いつかザニバルがキトを要らなくなるときがきたらまたお別れなのだと。



 港町ぺスカ。

 今、ホーリーケルベロスは通りの家々を破壊し、次いで岩場に六つの目を向ける。岩場の中の洞窟にはサイレン族が逃げ込んでいる。

 

 岩場へ向かおうとするホーリーケルベロスに、傷だらけのキトが挑みかかる。神聖結界のせいで動きが鈍い。猫どころか亀のようだ。近づこうとしてホーリーケルベロスの尾に弾き飛ばされる。


「キト! もう止めようよ!」

 少女ザニバルは叫ぶが、キトは立ち上がってまたホーリーケルベロスに挑んでいく。


 ザニバルは傷ついていくキトの姿に苦しむ。どうして助けさせてくれないのだろう。帰ってきてくれないのだろう。


 そこに神聖騎士ミレーラが近づいてきた。彼女は抜き身のレイピアを引っ提げている。ザニバルに向けた目は冷徹だ。邪魔な魔族を処分する気でいる。


 まだ間合いからはるか遠いはずの距離をミレーラは一瞬で詰めた。全身の勢いが込められた腕先を真っ直ぐに伸ばしてレイピアを加速、ザニバルの心臓を後ろから貫かんとする。


 剣の閃光が走る。

 ザニバルの長く束ねた後ろ髪が飛び散った。

 レイピアが貫いたのは虚空だった。

 ザニバルはしなやかに身をよじらせている。結界に動きを阻害される中、最小限の動きで剣をかわしていた。


「馬鹿な!」

 ミレーラは目を疑う。鍛え上げた刺突を華奢で弱々しい少女に回避された。

  

 構え直したレイピアで今度は連突する。ザニバルを斜めに刺していくはずの剣はぎりぎりのところで当たらない。黒い髪の毛を飛び散らせるばかりだ。


「まぐれではない!?」

 ミレーラはこの獣耳の少女が自分の剣よりも速いのだと認めざるを得ない。


 ザニバルは耳で剣を察知して避けながらも目はキトに釘付けのままだ。

 そのキトがミレーラによるザニバル攻撃に気付いた。キトは気を取られてホーリーケルベロスから噛みつかれそうになる。


 ザニバルは慌てる。

「キト! 集中して!」

 続くミレーラからの刺突を避けながら叫ぶ。


 しかしキトは気もそぞろだ。ザニバルを守るために戻ってこようとする。そこを後ろからホーリーケルベロスが頭突きした。キトの小さな身体が歪んで飛ばされる。地面に転がる。

 キトはそれでも起き上がってザニバルを見やる。駆け寄ろうとしてくる。


「ダメッ! キト!」

 そう言いながら、ザニバルはミレーラの斬撃をかわして脚をひっかける。ミレーラは予想外の反撃にバランスを崩すも一回転して立て直す。


「キト、来ないで!」

 言いながらザニバルは気付いた。キトが助けに来ようとしているのをザニバルは断固として拒絶している。これってザニバルがキトを助けようとしているのをキトが受け入れないのと同じだ。


 ザニバルはようやく分かった。

 今、キトはキトの戦いをしている。ザニバルはザニバルの戦いをする。別々の戦いじゃないんだ。


「思い出したよ、お姉ちゃんに叱られたこと。誰かががんばってるときに横から手を出しちゃいけないんだって。信じなきゃって」

 ザニバルはぐっと我慢する。キトと見かわす。キト、がんばって。ザニバルもがんばる。信じてる。

 目と目が通じ合う。そして互いに目を離す。敵をにらむ。


 強敵とザニバルをみなしたミレーラが、必殺の複合攻撃を仕掛けてくる。

 弱ったキトにとどめを刺そうとホーリーケルベロスが巨躯でキトに飛びかかってくる。 

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